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■863 / inTopicNo.1)  Trouble with women
  
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/05(Thu) 23:48:29)

    レイラが目配せをした。
    その教室に居る数人の少女たちが、一様に頷く。
    ターゲットは最前列、教壇の前に座る黒髪の少年。
    授業終了のチャイムが鳴り響く。
    間髪入れずに、少女たちがターゲットを取り囲んだ。

    最初に少年の腕を掴んだレイラが焦って後ろ振り返り、叫んだ。
    「やられた!逃げたわ!」
    彼女が掴んでいるのは、カバンにジャケットをひっかけただけのダミー。
    頭部のあたりには、ご丁寧に黒髪のウィッグが付けてある。
    いつのまに?と慌てて周囲を見廻す少女たち。
    と、教壇の下から小さな黒い影が飛び出し、教室の出口を目指した。

    「緊急配備!ジョウが脱出!」
    レイラが左手首の通信機に鋭く言った。
    ここクラッシャーの養成スクールでは、通信機付きのウォッチは珍しくない。
    これで、全学年の少女たちに状況を連絡できる。
    とは言え、少女の割合は決して多くは無い。学年全体の2割程度15〜6人である。
    命知らずのクラッシャー稼業。勧んで養成スクールに入れる親はあまり多くはない。
    その果敢な少女たちのターゲット。ジョウは教室から廊下へ飛び出した。

    今年9歳になったジョウは、学年でも小柄な方であった。
    この年代は、概して少女の方が精神的にも肉体的にも成長が早い。
    確かに少女たちはジョウよりも体格がよく、口も達者なようだ。
    おまけにクラッシャーを目指す、お転婆揃い。ゲーム感覚で始めた「男子捕獲作戦」は、実戦さながらであった。
    獲物はもちろん、学年でも人気のある男子だ。
    背はまだ小さいが、均整のとれた身体。やんちゃだが少し大人びた端正な顔立ち。強く光るアンバ−の瞳。おまけにクラッシャーの創始者ダンのひとり息子とくれば、少女たちの人気がない訳が無い。
    そのずば抜けた身体能力と類まれな戦闘センスで、ジョウは幾度となく少女たちの手を潜り抜けてきた。
    そして、今日も。
    少女たちとの戦いが始まる。

    廊下の突き当たりの階段に向けて、ジョウは猛然とダッシュしていた。
    最初の逃走で引き離す距離が、勝敗を分ける。
    と、階段を長身の男性教師が下りてくるのが見えた。
    神経質そうな白い細面の顔に、ストレートの長めの黒髪がかかる。ちょっと女っぽい。
    (やばい!言語学教師のドーリアだ!)
    ジョウは舌打ちする。
    それが聞こえたかのように、ドーリアは叫んだ。
    「ジョウ!廊下を走るんじゃない!」
    そして続けて言った。「それと、この前のふざけたレポートの再提出はどうした!?」
    うんざりして、ジョウは素早く踵を返す。階段の突破は諦めた。
    当然ながら、追ってきた少女軍団と鉢合わせになる。
    ジョウの目が左手の窓の位置を確認した。が、それよりも早くレイラが窓を閉める。
    「逃がさないわよ!」
    ジョウは着ているトレーナーのフードを瞬時にかぶり、左腕で顔を庇うようにして肘から窓に飛び込んだ。
    派手なガラスの割れる音と共に、小柄な身体が窓の外へ消えた。

    「ちょっと、まじ!?」
    レイラをはじめ、少女たちが慌てて窓にへばりつく。
    下をみると、庭の造成に来ていたトラックの荷台にひらりと降り立つジョウが見えた。
    いくら二階からの落下といえども、地面の状態によっては危険すぎる。
    ジョウはあらかじめ車のある位置を確認して覚えていたらしい。逃走経路の確認も、実戦では重要事項なのだ。
    ドーリアが窓から身を乗り出してヒステリックに叫んだ。
    「ジョウ!学校を壊すな!!」

引用投稿 削除キー/
■864 / inTopicNo.2)  Re[1]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/06(Fri) 01:21:34)

    しかし、第一防御線突破は日常茶飯事。少女たちは抜かりなく、第二防御線へと移行する。
    ジョウが走り出した校門の方から、新たな少女たちが現れた。
    (Uクラスのやつらだ・・・!)
    ジョウは唇を噛み、再び校舎の中に飛び込んだ。階段を上がるとみせかけて、そのまま窓から中庭に出る。
    左手の通信機をオンにして通信を傍受する。
    「・・・よ。校舎に入ったわ。第一班、B階段で待機。第二班、追跡続行」
    そのやりとりを聞いてジョウはにやり、と口の端をあげて悪戯っぽく笑う。

    中庭からさらに向かいの校舎に飛び込んだ。その校舎の向う側は裏門。最終脱出経路だ。
    走る速度を落とさず、廊下に出る。
    「きゃっ」
    「うわ」
    出会い頭にぶつかって、小さな影が吹っ飛ぶ。
    「ててて」頭を押えながら、ジョウが身体を起こした。
    目の前に、金髪の少女が倒れていた。
    「なんだよ!急に飛び出してくんな!」
    自分のことを棚にあげて、喚いた。
    少女ははじめ倒れた衝撃によるものか、ぼんやりジョウを見上げていたが、その翠色の瞳がみるみるうちに潤んできた。
    「な、なんだよ」突然の少女の涙にうろたえるジョウ。
    と、その瞬間。
    足元から掬われるような感覚とともに、身体が宙に浮いた。
    ナイロン製の網でジョウの小柄な身体がすっぽりと覆われ、上から吊るし上げられていた。

    「かかった!」
    廊下の影から少女たちが現れた。どうやら待ち伏せしていたらしい。
    おまけに、すばしっこいジョウを油断させるためにひとりの少女を囮として当てさせたようだ。
    彼の性格を見抜いた?作戦勝ちだった。
    「ジョウを捕獲。作戦終了」
    レイラが短く通信機に呟いた。肩まで伸びた栗色のカールした髪を、後ろに掻き揚げる。
    「手こずらせてくれたわね。おまけにルーシーを泣かせちゃって」
    腰に手をあて、オレンジ色の瞳を勝ち誇ったように細めた。

    「くっそぉ。ウソ泣きしやがって・・・」
    ジョウが倒れていたルーシーを上から睨みつける。
    ルーシーがにっこり笑って、舌をだした。
    「女の涙に弱いのね」

    「さあて、今日こそはちゃんと、答えてね」
    レイラが大人ぶった口調で言った。
    「私たちの誰を選ぶか」
    この年代の少女たちはかなりマセている。
    もちろん真剣な恋愛感情がある訳ではないが、誰が誰のことを好きか、なんてことが毎日の最大の話題の中心なのだ。
    ジョウのことを気にしている少女はたくさん居る。その注目の彼が誰のことを好きか、これは断然彼女たちの興味をそそるところだ。
    もしかして自分かも、なんて可愛い期待も無い訳ではない。
    これが少女たちのゲームの趣旨であった。
    ありていに言えば、完全にジョウをおもちゃにしているのだが。

    「なんでお前達の中から、選ばなきゃいけないんだよ!」
    ジョウは身体をくの字に曲げられ、手足を上にあげられたままの些か情けない格好でもがいた。
    「いいから、早く下ろせ!」
    生来負けず嫌いの彼は黒い瞳を炯らせて、歯軋りしている。
    「男らしく観念しなさいな」
    少女たちはくすくす笑って、彼を見上げた。

    と、その時。少女たちの脇から声がとんだ。
    「ジョウ!落とすぞ!」
    いきなり窓枠から小さな手が現れ、ジョウを吊るしあげていたネットの紐をぶち切る。
    声が聞こえたと同時に、ジョウは落下に備えて身構えた。
    落ちながら網の口に手をかける。身体を丸めて、なんとか足から着地。
    が、網が絡まって思うように出ることができない。
    「逃がさないで!」レイラが叫ぶ。
    これで少女たちに押さえ込まれたら、万事休すだ。
    「受け取れ!」
    ふたたび、声と共に今度は銀色の光が宙を飛んだ。
    ジョウが網目から出した手で瞬時に掴む。小さなバタフライナイフだ。
    素早く刃を開き、網を切り裂いた。慌てた少女たちが、ジョウを取り押さえようと手をのばす。
    ジョウは咄嗟に前方に転がってその手をかいくぐった。
    そして今切り裂いた網を、逆に少女たちに向かって投じる。
    数人の少女たちが投げられた網から逃れようともがいた。
    が、ジョウは容赦なく吊るしあげられていた長い紐を少女たちに廻すようにひっかけ、手前に引き寄せる。たまらず、少女たちが折り重なって倒れこんだ。
    「ざまあみろ!」
    短い捨て台詞を残して、ジョウは窓から外へ飛び出した。

    ふたつの影が裏門の方へ疾走する。
    「裏門はダメだ。きっと、待ち伏せしている」
    ジョウが隣の少年を見て鋭く言った。
    並んで走るのは彼よりも少し背の高い、すらりとした少年だった。
    「だろうな。焼却システムの裏から出よう」
    少年がすかさず、答える。
    ふたりは見つかるのを防ぐように植え込みの間を走った。
    すぐに焼却システムにでた。約2メートルの高さの建物である。
    素早くあたりを確認してから、傍にあるメンテナンスボックスを足がかりにシステムの上に跳び乗る。
    そしてその勢いを殺さず、ふたりは軽やかにシステムの天部を蹴り、後方の塀を飛び越えた。
    あとは全力で逃走するだけだ。
    膝を折って綺麗に着地したふたりは、申し合わせたように同じ方向に走り出していた。


引用投稿 削除キー/
■865 / inTopicNo.3)  Re[2]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/06(Fri) 17:49:04)

    大きな枝ぶりの常緑樹の上に、ふたりの少年は座っていた。
    テラの樟に類する巨木であった。幹から枝に分かれるところは座り心地のよい場所となる。
    「まいったぜ。いいかげんにしてくれよ・・・」
    ジョウが両腕を頭の後ろに廻し、幹にもたれかかる。
    すんなりと伸びた足を枝の上に投げ出し、げんなりとした表情でぼやいた。
    さすがの彼も疲れ気味だ。
    「人気者はツライねぇ」
    平行して走る枝の根元にさっきの少年が、立膝で座っている。
    口の端をあげて皮肉っぽく笑った。
    ブラウンのまっすぐな髪が賢そうな額にかかる。

    「でも、本当に助かったぜ。スレイ」
    「おまえが捕まったあかつきには、俺にターゲットが廻ってくる。それはごめんだ」
    スレイが肩をすくめて言った。
    「さっさと捕まった方が楽になれるのかな?」
    「どうかなぁ。一学年上のマッケイはズボン脱がされて、木の上から吊るされてたぜ」
    「おまえ、嫌なこと言うなぁ」
    ジョウは本当に嫌そうに顔を歪めた。
    それを見てスレイが他人事のように笑って言った。
    「まあ、お前も悪い。あんなにレイラやらアターシアがモーションかけてるのに知らん振りだもんな」
    「なんだよ、それ」ジョウが訝しげに訊く。
    「嘘つけ。先月のお前の誕生日、椅子の上にプレゼントが置いてあったろ。おまえ、それ気づかずに踏んでたろ」
    スレイが昨日のことのように思い出して笑った。
    「誕生日?あー、俺の?先月だっけ」当のジョウはそんな調子だ。
    「トラップに気づくのは天下一品の早さなのに、どーしてそっちは鈍いのかねぇ」
    スレイが大袈裟にため息をついてみせた。
    「つまんねえこと、言うな。それよかこの前、面白い崖を見つけたんだ。クライミングの練習にはもってこいだ。今から行こうぜ」
    ジョウは黒い瞳をきらきらと輝かせながら、言った。今にも駆け出しそうだ。
    しかし、スレイはかぶりを振って答えた。
    「わりぃ。今日は妹の誕生日なんだとさ。早く帰って来いって、母ちゃんうるさくてよ。
    そうだ、お前も一緒に行こうぜ。きっとケーキかチェリーパイがたらふく食えるぜ」
    「ふうん」
    ジョウが面白くなさそうに鼻をならした。

    ふたりはそれぞれの枝から、軽々と飛び降りた。
    「いいや、今日はやめとく」
    ジョウがトレーナーのポケットから銀色のバタフライナイフを取り出し、スレイに放った。
    スレイが歩きながら、片手で器用に受け取る。
    「なんでだよ。うちの母ちゃん、ジョウのこと気に入ってるんだけどなー」
    ナイフをズボンのポケットにしまいながら、スレイは残念そうに言った。
    「いっつもガミガミ怒るくせに、ジョウと一緒だっていうと何も言わないんだぜ」
    「それはおまえの母ちゃんがおかしいよ。大体は俺と遊びに行かせないぜ」
    ジョウが面白そうに笑った。

    そうなのだ。ジョウは一部の母親たちに、あまり評判がよろしくない。
    ジョウの無茶苦茶っぷりはスクールでは有名だ。いくらクラッシャーの卵とはいえ、遊びからして命懸けのようなところがある。それにたとえ卓越した運動神経のジョウは無事であっても、自分の子供たちがケガをしないとは限らない。自分の子供がジョウと一緒に居ると、慌てて手をひいて帰っていく親もいるくらいだった。

    「それに・・・おまえの母ちゃん、大袈裟だからな。会ったら絶対ハグとキスの嵐だ」
    ちょっと太めなスレイの母親に抱きすくめられた記憶がよみがえり、ジョウは困った表情になる。
    大きな胸で窒息しそうな上、両頬に受けるキスはくすぐったくて、仕方ない。
    別にスレイの母親が特別なわけではない。一般的にハグもキスも挨拶がわりだ。
    しかし、殆ど母親を知らずに育ったジョウである。
    ストレートな愛情表現に、正直どうしていいか分からないのである。
    「そりゃ、仕方ないよ。兄貴なんて15歳になった今でも、毎朝キスで起こされるよ。すっごい嫌がってるけど」俺もそうなるのかなぁ、とスレイはぼやいた。
    「ま、いいや。またそのうち来いよ。いつでもいいからさ」
    スレイが片目をつむって言った。
    「そうだな」ジョウはぼんやりと言葉を継いだ。
    「おまえの母ちゃんのチェリーパイ、嫌いじゃないよ」


    スレイと分かれてから、ジョウは暗くなってきた路をひとりで歩いていた。
    ジャケットはダミーを作ったときに被せてきたので、今は着ていない。
    12月の風の冷たさに首をすくめながら、トレーナーのポケットに手を入れる。
    とぼとぼと歩きながら、去年の冬スレイと湖に落ちた時のことを思い出していた。

    真冬の凍った池の上で、遊んでいた。
    スクールからは勿論危ないので決して近づかないように、と通達が出されていた。
    しかし、そんなことを気にするジョウたちではない。
    毎年そうやって遊んでいたことにふたりは油断していた。氷の厚さは例年通りだったが、確実にふたりの体重は重くなってきていたのだ。
    氷の薄い場所にふたりが来た時、あっけなく氷が割れ、ふたりは池に落ちた。

    隣が公園になっていたことが幸いした。通行人からすぐに通報がゆき、救急隊が駆けつけてきた。
    そして、すぐにスレイの母親も飛び込んできた。
    氷点下近い気温なのに上着も着ていない。報せを受けてすぐに家を飛び出してきたのだろう。
    いつもの緩慢な態度からは想像できないくらいの素早さでスレイの元に駆け寄った。
    と、スレイの頬にいきなり平手打ちをくらわした。
    ジョウの目が丸くなる。
    しかし、次ぎの瞬間。スレイの母親は彼を抱きしめ、大声で泣き始めた。
    救急隊もひるむくらいの号泣だった。
    大きな母親の肩口からわずかに見えたスレイの顔は赤くなり、泣き笑いのような表情になった。
    その様子を救急隊がかけてくれた毛布にくるまりながら、ジョウはぼんやり見ていた。
    (何なんだよ。怒ったり、泣いたり・・・)

    あの光景が時々、想い出される。自分でも何でだかよく分からない。
    そのよく分からないこと自体、彼はもやもやして気に入らなかった。
    そんな気持ちを吹っ切るかのように、ジョウはいつしか日も暮れた路を走り出していた。

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■866 / inTopicNo.4)  Re[3]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/06(Fri) 17:50:07)

    自宅のワンブロック手前の歩道をジョウは走っていた。
    と、角からレーサーサイクルが飛び出してきた。
    咄嗟にジョウは車道側に飛びすさり、間一髪これを避けた。
    その時、車道に停まっていた白いエアカーのドアがいきなり開いた。
    さすがのジョウもこれまでは、避け切れない。
    派手な激突音がした。


    額に柔らかな感触のものが押し当てられていた。冷たくて気持ちがいい。
    うっすらと瞳を開けてみるが、視界は白くぼやけている。
    それが濡れたタオルだと気付くのに数分、かかった。
    ジョウは唸りながら、タオルをどけた。

    「気がついた?」柔らかい女性の声がした。
    続けて、海のような深い碧い瞳がジョウの顔を覗き込んできた。
    何故だか分からないが、懐かしい色だった。

    「エアカーのドアとぶつかったのよ。びっくりしたわ」
    碧い瞳の女性は濡れタオルを持ち直し、ふたたびジョウの額を押えた。
    こめかみから額にかけて鈍い痛みが走る。
    ジョウは顔をしかめて、嫌そうに頭をそむけた。
    「大きなコブになっちゃったけど、大丈夫かしら?」心配そうに言葉を続ける。
    「お家へ連絡して、一緒に病院へ行きましょう」

    「いい。もう帰る」ジョウは起き上がろうと上半身に力を入れる。
    「だめよ。気を失っていたのよ。しばらく安静が必要だわ」
    女性は身をかぶせるように、ジョウを制した。長いまっすぐな黒髪が目の前で揺れる。
    確かに一瞬めまいがして、ジョウは目を閉じてベッドに身を戻した。
    あんな鋼鉄のドアにぶつかったのだ。このぐらいで済んでいる方が不思議なくらいだ。

    ジョウが観念したのを見て、女性はタオルを濡らすためにベッドから離れる。
    「どこのスクールに通っているの?家はこの近く?」
    薄目を開けてジョウは部屋の中を確認した。
    アイボリーの柔らかな壁紙とオーク材の家具。右上の窓にかかるアプリコット色のカーテンが落ち着いた部屋に彩りを与えていた。
    ベッドサイドにある小さなテーブルにはアネモネの花が活けられている。
    ジョウが今まで訪れたことのない、優しい雰囲気の部屋であった。

    「どうしたの?気分でも悪い?」
    答のないジョウの様子に、ふたたび近づいてきた女性が心配そうに覗きこむ。
    ほっそりとした容姿は少女のようだが、雰囲気に大人の落ち着きがある。
    年齢は25、6歳くらいだろうか。
    額の中央から分かれた真っ直ぐな黒髪が小さな顔のラインを隠す。
    つぶらな深い碧い瞳が、じっとジョウの様子を見ていた。
    ジョウは何となく、目を逸らした。

    女性は今濡らしてきたタオルをジョウの額に優しく添えて言った。
    「お家の電話番号を教えてちょうだい。お母様に連絡をとってみるわ」
    「家には、誰もいない」ジョウがぼそりと答える。
    「出かけているの?連絡を取る方法はあるのかしら?」
    女性が困ったように言葉を継いだ。
    ジョウはむっつりと黙った。

    黙ったジョウの様子を、女性は具合が悪いと思ったようだった。
    少し慌てて階下の部屋に向かった。
    時間は夜7時を少しまわっている。今から病院で診てもらえるかどうか連絡を入れてみた。
    額の傷の具合、意識の有無等から緊急ではなさそうだが、念のため来院するようにと勧められた。
    その時、庭に居るバトラーの吠える声がした。
    慌てて電話を切って、外を見る。しかし、夜の帳の中には何も見えなかった。
    首を傾げながら、二階に上がり扉を開ける。
    「心配だから、病院に行きましょうね」
    しかし。ベッドの中はもぬけの殻だった。
    傍の窓が半分開き、アプリコット色のカーテンが風に揺れていた。

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■867 / inTopicNo.5)  Re[4]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/07(Sat) 09:11:06)

    ジョウは次の日、スクールを休んだ。
    別に怪我がひどかった訳ではない。コブはできたが、元々丈夫な身体だ。気分も悪くはなかった。
    しかし何となく行く気が起きなかった。
    それは今年に入って18枚目のガラスを割ったことと、行ったところでまたもや放課後の女子たちとの逃走劇が目に見えているからだった。
    −要するに完全なサボリなのだが。

    ハウスキーパーのマディ婆が簡単な身の回りの世話をして帰って行った。ジョウの額の大きなコブにアイスシートを貼って手当てもしてくれた。
    彼のこんな怪我はいつものことなので、彼女はたいして驚いてはいなかった。
    ジョウは午後から庭に出て、一片の木を削りだしにかかった。
    使いやすいナイフの柄を作ろうと思っていたのだ。木は硬いウォルナットを選んだ。
    大体の形を削り出し、サンドペーパーを当てようとした時。
    大きな金色の毛のレトリバーが庭に飛び込んできた。

    「うわっ!?」
    横から覆い被さるように抱きつかれ、たまらず倒れ込む。
    大きなレトリバーが小さなジョウの上に乗り、嬉しそうに尾を振っていた。
    「だめよ、バトラー!離れなさい」
    涼やかな声が聞こえた。黒髪をなびかせ、あわてて駆けて寄る女性が目の端に入る。
    白いロングコートを着た昨日の女性だった。
    金色の毛を掴み、必死でレトリバーを引き剥がす。
    「大丈夫?また頭打っちゃったかしら?」
    急いで小柄な身体を助け起こす。そっと頭に手を添えて碧い瞳が覗き込んだ。
    「ごめんなさい。ジョウ」

    ジョウの家のリビング。ジョウはソファにぐったりと寄りかかっていた。
    レトリバーは庭につながれて今は大人しくしている。
    女性は勝手にキッチンに入り、トレーに何かを載せて出てきた。
    「本当に悪かったわ。バトラーも悪気はないの。人なつっこいだけなのよ。許してあげて」
    トレーの上には淹れたての紅茶のカップと小さなタルトがふたつずつ載っていた。
    それらをソファの前のローテーブルに手早く置いてゆく。
    「今朝、焼いてみたの。一緒に食べましょう」
    女性が向かいのソファに座って、にっこりと笑った。大輪の花が咲いたような華やかな笑顔だった。
    しかし、ジョウはと言うと。不審な目で遠慮なく女性を睨んでいる。
    「どうしたの?」
    女性は笑顔のまま屈託なく訊く。
    「名前」
    「?ああ、ごめんなさい。私、アリエスと言うの。昨日慌てていたものだから、すっかり言いそびれちゃって」
    「ちがう。なんで俺の名前を知ってる?」
    ジョウがふてくされたように言った。
    「ああ、そっちのこと?」
    アリエスは人差し指を口元にあて、面白そうに笑った。
    「あなた、左腕に通信機付きのクロノメーターしてたじゃない?それにあの身のこなし。たぶんクラッシャーの養成スクールの生徒だと思ったから。校門で女生徒に訊いたら、すぐ分かったわ」
    女生徒、と聞いてジョウはあからさまに嫌な顔をした。
    アリエスは気にせず、続ける。
    「悪いと思ったけど、家も教えてもらったわ。玄関脇のモミの木が目印ですぐ分かったの」
    アリエスはふっと碧い瞳を翳らせた。
    「だって、昨日急に居なくなっちゃったから、心配で・・・」
    ジョウは慌ててきまり悪そうに、窓に目をやった。

    突然、庭の方でバトラーが吠え出した。それが合図のように玄関のチャイムが鳴る。
    「あら、お客様?」
    アリエスが自然な動作で玄関に向かった。
    ジョウはあまりにもあっけらかんとした彼女の動作に呆れていたが、と言って止める気にもなれずソファにぐったり埋まったままだった。
    玄関からアリエスが声をかけた。「ジョウ、お友達よ」
    自分ひとりだったら絶対居留守を使っているところだが、アリエスが扉を開けてしまった以上出ない訳にはいかない。
    ジョウはのろのろとソファから降り、玄関に向かった。

    「ジョウ君の、忘れ物です」
    かなりぶった態度でレイラがカバンとジャケット、そして黒髪のウィッグを差し出した。
    後ろにはルーシーと少し小柄なアターシアが見える。
    「あら、こんなもの忘れてきちゃったの?」
    昨日の出来事を知らないアリエスがそれらを面白そうに受け取った。
    ジョウは舌打ちして3人の少女達を睨みつけた。
    さっきからバトラーが吠え続けている。
    「嫌ね。うるさいわ、あの子」都合よく、アリエスが庭へ向かうために奥へ引き返した。

    「何しに来た」ジョウが壁にもたれて腕を組み、少女達を睨みつけたまま言う。
    「ひどい言い草ね。お見舞いに来たのよ、あたしたち」
    ねー、とレイラが後ろのふたりを振り返ってくすくす笑う。
    「案外、元気そうね。今日はもしかしてサボリ?」
    「お前たちにさえ会わなきゃ、いつだって元気だ。用が終わったんなら、帰れ」
    かなり不機嫌な顔で、外に向かって顎をしゃくる。
    「ひどーい。私たちをさっさと帰して、あの綺麗な人とデート?」
    ルーシーが小さな拳を口元にあて、わざとらしく言う。
    「なに?」ジョウが思わぬ台詞に少し顔を赤らめた。
    それを見逃す少女達ではない。
    「何?図星?」
    「えー?年上が好みだったの?」
    「私たちから逃げ回るのって、そーゆーこと?」
    次々と勝手なことを喚き散らす。ジョウの堪忍袋の緒が、音をたてて切れた。
    「うっさい!とっとと帰れ!!」
    少女達をまとめて玄関から蹴り出し、派手に扉を閉めた。

    扉を背にして大きな吐息をつく。
    しばし心を落ち着けた後、ジョウはふらふらとリビングに戻った。
    アリエスはソファに座り、悠然と紅茶を飲んでいる。にっこりと笑って言った。
    「モテモテね。ジョウ」
    ジョウは唸って、ソファに顔から倒れ込んだ。


引用投稿 削除キー/
■868 / inTopicNo.6)  Re[5]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/08(Sun) 00:58:26)

    アリエスはクラッシャーの妻であった。
    夫のガーベイは当然のことながら、宇宙を駆け巡っている。
    彼女は他のクラッシャーの家族がそうであるように、惑星アラミスで夫の帰りを待っていた。

    そんなアリエスはどうやら、ジョウがすっかり気に入ったらしい。
    また、マディ婆と知り合いだったのも幸いに、何かと用事を作ってはジョウの家を訪ねてくるようになった。
    焼き菓子を作ったと言っては持って来て、勝手にお茶を入れておしゃべり。
    (もちろん、一方的にアリエスが話して帰る)
    バトラーの散歩の途中に綺麗な花を摘んで来ては、これまた勝手に花瓶を取り出し、リビングに活けてゆく。
    (もちろん、ジョウの好みなど訊かない)
    ジョウが不在の時は玄関先にメモと一緒にそれらは置いてあった。

    ほとんど独りで気ままに過ごしてきたジョウは、これらの出来事が初めはとても鬱陶しく思えた。
    しかし、アリエスは繊細な少女のような見た目と違って、自由奔放で大らかな性格だった。
    アリエスの大輪の花が咲いたような華やかな笑顔や、自分の名前を呼ぶ涼やかな声にジョウはだんだん慣れてきていた。
    そうして、いつしかそれが心地よいものになってきている。
    今までジョウの周りには、うるさいクラッシャー少女達か、ハウスキーパーのマディ婆、そしてスレイの母親など、女性像は限られていた。
    そんな中に現れたアリエスは、ジョウが今まで遭遇したことのない不可思議な存在だ。
    同年代の少女達とは違う落ち着いた雰囲気。しかしながら、しっかりとした母親達とは異なる可憐な初々しさ。どっちつかずの中間的な、何とも気になる存在。
    それはジョウにとって初めての淡い想いなのか、はたまた若くして亡くなった母親への慕情なのか。
    勿論、本人はそんな気持ちにさえも気づいていないのだが。

    ほとんど毎日のように顔を見せていたアリエスが、この2、3日姿が見えなかった。
    ジョウは何となく今日あたりは来るだろうと思い、特に用事もないのに庭に出て、路を伺っていた。
    しかしその日も、陽が傾く頃になっても彼女の姿は見えなかった。
    ジョウは何となく、ふらりと散歩に出かけた。

    白い壁の小さな家の前に着いた。モッコウバラの生垣越しに家の中の様子を伺う。
    二階の南側の窓に灯りがともっているのが見えた。先日、ジョウが寝かされていた部屋だ。
    小柄な身体を利用して、生垣の下からそっと庭に潜り込む。
    手近な小石を拾って、灯りのついた窓を狙う。
    (割らないように手加減しないとな)
    右腕を肩口に振りかぶったところへ。バトラーが後ろから嬉しそうに飛び掛ってきた。
    「ぶっ」
    狙いが狂った上に、バトラーの勢いが同調されて小石は一階の窓にまっすぐ飛んだ。
    派手な音がして、ジョウは今年19枚目のガラスを割った。

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■869 / inTopicNo.7)  Re[6]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/08(Sun) 00:59:33)

    「今日のことに関しては、バトラーは悪くないわよ」
    アリエスは悪戯っぽく片目をつむって言った。
    例によって二階の部屋。小さなテーブルを挟んで座るジョウにホットココアを手渡した。
    ジョウはふてくされた表情のままカップを受け取り、一口すする。
    額にはまた懲りもせず、白いリバテープが貼られていた。

    先日寝かされていた部屋の雰囲気と違うことに気づき、ジョウは辺りを見回した。
    その様子を見て、アリエスは恥ずかしそうに説明する。
    「ガーベイが久し振りの休暇で帰ってくるの。この2、3日片付けの真っ最中なのよ」
    家具の配置も少し変わっているが、とにかく細々としたものが扉から棚から出されて床やテーブルに置かれていた。確かにアリエスは片付けが苦手のようだった。
    「いつも余計なものは捨てろ、って怒られちゃうの。帰って来る度に大掃除で、困るわ」
    綺麗な形の眉を寄せながらも、口元は嬉しそうに微笑んでいる。
    何でそんな言葉とは裏腹な表情をするのか、ジョウはよく分からなかった。

    部屋の中を見回していたジョウは近くのサイドテーブルの上の写真に気付いた。
    「これが、ガーベイ?」
    銀細工の写真立てには黒髪を短く刈り上げた男性が写っていた。角張った顔と小さな目が誠実そうだ。背はあまり大きくないが、鍛えられた体躯にはクラッシュジャケットがよく似合っていた。
    「そうよ。男前でしょ?」
    アリエスが恥ずかしげもなく言った。
    その隣の枠には結婚式の写真も飾られていた。
    シンプルな胸元が少し広めに開いたウェディングドレスを身に纏い、写真の中のアリエスは嬉しそうに微笑んでいた。結い上げた黒髪と透き通るベールに、白い薔薇の花びらが可憐に散っていた。
    「おまけに新婦も美人でしょ?」
    アリエスがまた得意気に言葉を継いだ。
    「ふうん」ジョウはわずかに顔を赤らめ、興味なさそうな振りをして元の位置に戻し、すぐに隣の写真立てに手を延ばした。

    その真鍮の写真立てには、翼を持つ小さな天使が彫られていた。
    天使の顔の部分からは、赤い顔をした新生児の写真がのぞいていた。
    生まれたばかり、まだ生き物らしさの残る小さな生命体。
    「へんな顔だな」ジョウは無遠慮に言った。
    「あら、ひどい。それは本物の天使よ」アリエスがむっとした声で言った。
    「これが?」
    「そうよ。あんまり可愛いから生まれて10日目で天に召されてしまったの」
    アリエスは謡うように言った。
    「私達の息子のルカは、天使になっちゃったの」

    ジョウは子供ながらにもその意味を理解した。
    何と言ってよいか分からず、写真をテーブルに戻した。
    「ごめん」
    「やだ、大丈夫よ。もう3年も前の話なの」アリエスは寂しげに笑い、遠い目をした。

    「最近、想い出すことが少なくなってきたわ。あんなに可愛いルカのことを。酷いのよ、私」
    アリエスがその碧い瞳を哀しそうに曇らせる。
    「とても短い間だったけど、私達の元に来てくれたのに。でも今はきっと天国で独りぼっち・・・」
    最後の方は呟くように小さかった。細い肩を落として窓の外に目をやる。
    涙も出尽くして、泣くこともできないようなアリエスの姿を見るのは、辛かった。

    「そんなことないよ」ジョウがその漆黒の目を光らせて、強く言う。
    「天国には俺の母さんが居る。きっとルカも一緒に居るよ」

    アリエスは驚いたようにジョウを見た。
    そして。しばらくしてから緩やかな動作で椅子を降り、ジョウをそっと抱き寄せた。
    「そうだったわね」ジョウの癖のある黒髪に頬をよせ、小柄な身体を包み込む。
    「あなたは独りなのに強くて・・・優しいのね」

    他人に触れられることを極端に嫌がるジョウであったが、アリエスの抱擁は自然に受け入れられた。
    気持ちの落ち着くいい香りに包まれながら、小さく呟いた。
    「母さんの想い出なんて、何も無いよ。だから寂しくも無い」

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■870 / inTopicNo.8)  Re[7]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/09(Mon) 00:11:50)

    ジョウ達はショッピングモールに来ていた。
    休日のモールは家族連れや若いカップルで賑やかに混みあっている。
    通常ならジョウがもっとも嫌う場所であった。
    しかし、今回ばかりはアリエスのお供をしなければならない理由があった。
    「うちの大事なガラスを割ったのよ。このぐらい付き合っても罰はあたらないわよね?」
    にっこりと笑うアリエスは、本当に楽しそうだ。

    「んー。どれがいいかしら?何色がいいと思う?ね、ジョウ」
    メンズショップでアリエスは既に1時間以上、悩んでいた。
    「俺に訊くなよ。ガーベイに会ったこともないんだぜ」
    何度目かの問いに、何度目かの同じ答えをする。すっかり飽きてしまった彼は、今すぐこの店を飛び出したくて、大きなウインドウの外に何度も目をやる。
    「ごめん、そうだったわね。じゃあ、これとこれならどっち?」
    ジョウは黙ったまま、ほとんど候補を見ずに片方を指差した。
    「やっぱり?私もそう思ってたのよ!」アリエスが嬉しそうにネイビーブルーのセーターを手に取った。
    (金輪際、女の買い物には付き合わないぞ)
    ジョウは9歳にして固く心に誓った。

    「んー、じゃあこれとこれはどっち?」
    「まだ、あんのかよ!」
    とジョウが目を剥いたその頭に。ニットキャップが被せられた。
    「似合うわ!このグレイがいいかしら?それともグリーン?」
    アリエスが楽しそうにキャップを取り替える。
    「俺、帽子なんか被らないよ」
    ジョウが恥ずかしそうにキャップを脱いだ。
    「だめよ!頭は大事よ。ただでさえ、怪我が多いんだから」
    アリエスはグレイのキャップを取り上げ、セーターと一緒に店員に渡した。
    「これ、プレゼント用にラッピングお願いします」
    唖然としているジョウに向かって、アリエスが満面の笑顔で訊く。
    「リボンの色は何色?」
    「リ・・・!?」慌てて両手を振るジョウ。
    「そう?今、被って行くみたい」
    あっさりとアリエスは言い、店員から受け取ったキャップをジョウの頭に被せた。アイリッシュグレイにダークグリーンのラインが入っている。
    「おでこのテープが隠れて、いいカンジよ」ジョウの耳元で囁いて、楽しそうに笑った。
    ジョウは唸るしかなかった。


    モールのレンガ通りに面したカフェにふたりは座っていた。
    アリエスはホットショコラとバニラアイス。ジョウの前にはショコラ・ア・ラ・モードが置いてある。
    「ここはショコラでは有名な店なの。美味しいのよ」
    アリエスが嬉しそうに言って、カップに口をつける。
    ジョウはずり落ちてくるニットキャップを目の上まで押し上げながら、スプーンを口に入れた。
    小さなプリンの周りにはバニラとショコラのアイス、フレークと果物が盛り付けられている。
    確かに美味しかったが、慣れない店の雰囲気にジョウはいささか居心地が悪い。
    辺りをそれとなく見回していると、斜め前のテーブルの母子が目に入った。
    5、6歳くらいの男の子が大きなパフェと闘っている。すでに口の周りはチョコだらけだ。
    「やだ!ちゃんと口を大きく開けて、入れなさい!」
    若い母親が甲高い声を上げて、子供の顔を上に向かせる。厳しい声とは裏腹に、ナプキンで子供の口の周りを優しく拭う。
    その手つきを、ジョウはぼんやり見ていた。

    「ねぇ。私もそれ、一口もらっていいかしら?」
    突然、アリエスの声がジョウの思考を遮った。
    「あ?ああ」ジョウは慌てて正面を向き、何度も頷く。
    アリエスは自分のスプーンを持ち直しかけたが、ジョウの顔を見て面白そうに笑う。ジョウの左の口端にもショコラクリームがついていた。
    「やあねぇ」と、いきなり白い指が伸びてきてジョウの口元を拭った。そして、その指を自分の方にもどして猫のように舐める。
    「あら、やっぱりそっちも美味しいわ」
    「な、なにすんだよ!」ジョウは真っ赤になりながら、左手の甲で口を拭う。
    アリエスはきょとん、と目を丸くしていたが、すぐに自分のバニラアイスを差し出した。
    「ごめんね。こっちも食べていいわよ」
    「い、いらねえよ!」
    どうも調子が狂うジョウであった。


    「その・・・クロノメーター、素敵よね」
    アリエスがジョウの左手に巻いてある銀色の時計に視線を止めた。
    「ああ、これ?親父が誕生日にくれたんだ。アストロノイツ仕様なんだぜ」
    ジョウが左手を持ち上げ、誇らしげにそれを撫でる。
    「もう来年からは、見習いで親父の船に乗り込むことになってる。宇宙に出れるんだ」
    漆黒の瞳をきらきらと輝かせ、本当にジョウは嬉しそうに言った。
    「ほんと?ダンの船に乗るの?凄いじゃない!」アリエスは自分のことのように、無邪気に喜ぶ。
    「銀河系随一のクラッシャーの船に乗れるなんて、皆が羨ましがるわ」
    「ただの見習いだぜ。でも・・・そのうち、俺が親父を抜いて一番になるさ」
    ジョウが悪戯っぽくにやり、と笑う。そして大口をあけて、アイスを頬張った。
    そんな大人びた口調と子供っぽいしぐさが対照的なジョウを見て、アリエスが吹き出した。
    「よく言うわ。ただの見習いのクセに」
    そして、碧い瞳を優しく細めてジョウを見つめる。
    「でも・・・きっとジョウなら、なれるわ。銀河系随一のクラッシャーに」


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■871 / inTopicNo.9)  Re[8]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/09(Mon) 00:17:56)

    「でも・・・ジョウが宇宙に行ってしまうと、寂しくなるわ」
    足元のレンガを一歩ずつ確かめるように踏みながら、小さくアリエスが呟く。
    ふたりはカフェの外に繋いでいたバトラーを連れ、家路についていた。
    短い冬の夕暮れ。細く残った陽光が、モールのレンガを敷き詰めた通りを幾何学模様のように照らしていた。

    「たまにはアラミスにも戻ってくるだろ」
    ジョウは頻繁にずり落ちてくるニットキャップと闘いながら、ぶっきらぼうに言った。
    「うそうそ」
    アリエスが小さく吹き出して笑う。
    「クラッシャーの男はみんなそう言うの。でも戻ってきたためしなんか、ありゃしないわ」
    そして前を向いて寂しそうに言葉を継いだ。
    「さっき、ガーベイから連絡があったわ。また休暇が取り消しになったみたい・・・」
    「え?ガーベイ、戻って来ないの?」
    ジョウは驚いて顔を上げた。
    そう言えばアリエスは先ほどのカフェで携帯が鳴って、あわてて席を外していた。

    「そうよ。また今年のクリスマスも独りだわ。こんな美人の奥さんをほうっておいて!」
    口を尖らし、大きなペーパーバッグを肩に引き上げた。
    「このセーターも明日、ギャラクシー・パックで送り付けてやるわ!」
    威勢のいい口調とは裏腹な、アリエスの寂しげな横顔をジョウは心配そうに眺めた。
    その視線に気づき、アリエスはふっと微笑をもらす。
    「いいのよ、もう。慣れっこなの。クラッシャーと結婚したんだもの、仕方ないわ」
    そして急に真面目な顔をしてジョウの方に屈みこみ、人差し指を突き出した。
    「でも、いいこと。ジョウはちゃんと帰ってきてあげるのよ。休暇なんて短くてもいいの。アラミスに帰ってきて、奥さんを抱きしめて。そして、キスしてあげるのよ!」
    「キ・・・!?」
    ジョウが慣れない言葉に耳まで赤くなり、目を丸くした。
    「そうよ。女の人は男が思っているほど、強くないんだから・・・」
    赤くなっている傍らの少年なぞ気にも留めずに、アリエスは上体をゆっくり戻して呟いた。
    最後の方は独り言のように小さくて、ジョウにはよく聞き取れなかった。


    夕闇迫るモールはクリスマスシーズンを前に、色とりどりのイルミネーションで輝きはじめた。
    ショップの前の植え込みや葉を落とした街路樹を小さな発光ダイオードが煌かせる。
    道行く人々はそれぞれ、愛する家族や恋人のために選んだプレゼントを大事そうに抱えている。
    子供がウィンドウを指差して、たしなめる母親を困らせていた。
    「クリスマスって、嫌いだ」
    紫がかった闇の中に浮かぶ数々の光景をぼんやり見ながら、ジョウは言った。
    「そうなの?プレゼントがもらえるわよ」
    「サンタなんか、居ないのさ」
    「子供らしくないのねぇ」
    ふてくされたようなジョウの態度にアリエスが声をあげて笑う。
    「でも、私もクリスマスは嫌い」
    ふっと笑いを止めて、アリエスは静かに言った。
    「天使がルカを連れて行ってしまったのが、クリスマスの朝だから」

    ジョウはちょっと驚いたように横を見上げる。
    周りの夕闇のせいで、アリエスの横顔はよく分からなかった。
    しかし、樹々を飾るイルミネーションが彼女の瞳だけを照らしていた。
    その瞳に映る光の輪郭は、潤んでぼやけているようだった。
    「でも、このイルミネーションは好きなの」
    アリエスは遠い目をしたまま、ふっと苦笑した。
    「皆が寝静まった夜中に、ひとりで樹々を飾る光を見に来るの。
    まっすぐな通りを飾る光はそのまま夜空の星と一緒になって・・・天使が降りてきそうなのよ」
    ジョウは無言で、闇の中でよく見えないアリエスの横顔に目を凝らした。
    「ルカを連れて戻って来てくれるかも・・・」
    呟くように言いかけて、口をつぐんだ。「そんなクリスマスも、もう・・・三度目なのね」

    「俺の家の前に、中位のモミの木があるだろ?」
    今まで黙っていたジョウが突然、口を開いた。
    アリエスがはっと我に返り、傍らの少年を見る。
    「あれにクリスマスの前の晩に水をぶっかけておくんだ。そしたら朝、つららが木の枝や葉から下がって、とても綺麗なんだ」
    またズレかけたニットキャップを持ち上げながら、通りのイルミネーションに目をやり、言葉を続ける。
    「こんなに豪勢なツリーじゃないけど。でも、俺はその方が好きなんだ」
    アリエスは驚いたように碧い瞳を見開いていた。
    が、すぐに嬉しそうに小さく笑い、ジョウの顔を覗き込んだ。
    「素敵ね。私も見てみたいわ。今年もやってくれる?」
    「あ、ああ。別に、構わないぜ」
    間近にアリエスの顔がきて、ジョウは少しうろたえて答えた。
    「嬉しい。バトラー、見に行きましょうね。今年のクリスマスが楽しみになってきたわ!」
    傍らを歩く金色の毛の大柄なレトリバーの首をなでる。
    飼い主に影響されたのか、バトラーも嬉しそうに尾を振って足取りも軽やかだった。
    そんな少女のように喜ぶアリエスを見て、ジョウはほっとしたと同時になんだか可笑しかった。
    (女って、なんだか単純だな・・・)


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■872 / inTopicNo.10)  Re[9]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/09(Mon) 00:28:25)

    「次は俺の番だ」
    ブラウンの癖のないまっすぐな前髪を掻きあげながら、スレイが言った。
    放課後、いつものようにジョウとスレイはつるんで遊びに来ていた。
    先週からふたりの間で流行しているのは、自前で作ったエアガンでのガウスの狙い撃ちだ。
    体長20センチそこそこの鳥類だが泣き声がうるさく、庭の手入れした花を面白がって落とすのでアラミスでは嫌われ者だ。
    だからと言って、撃ってよい訳ではないのだが。

    乾いた音が響いた。キットの改造品とは言え、エアガンは鳥を落とすくらいの威力は充分あった。
    70メートルほど先の木の枝に止まっていた影が落ちる。
    「やるな」ジョウがちらりと横目でスレイを見た。
    そして、おもむろに古いブロック塀の上に左腕をのせ、狙いをつける。
    「木の上には、もういないぜ」スレイが訝しげに言った。
    「その向こうの屋根に止まっているヤツだ」
    言うと同時にトリガーを引いた。120メートルはゆうに離れている標的だった。
    「うわ。まじかよ。どこに落ちた?」
    「やったよ。ガレージの屋根の上に落ちた」
    ジョウが黒い瞳を凝らして言う。
    「ちぇっ、相変わらず外さないなあ。競いがいの無いヤツだぜ」
    肩をすくめて、つまらなさそうにスレイが言った。

    「レイラ達が騒いでたぜ」
    自分のエアガンを器用に分解しながら、スレイが突然口を開いた。
    「ジョウが年上好みだったなんて!ひどいわっ!」
    拳を口元に寄せ、これまた器用にレイラの口真似をする。
    ジョウは無言のまま、スレイの向こう脛を蹴り飛ばした。たまらず、スレイは屈みこんで呻く。
    「つまらねぇこと、すんな」
    「あっれー、なんだか顔が赤いんじゃない?まんざら嘘でもないのか?」
    スレイはしゃがんだまま、面白そうにジョウを見上げた。
    「ま、分からないでもない。アリエスは美人だ。それに・・・」
    脛をさすりながら、ゆっくり立ち上がる。
    「なんだよ」
    「ユリアに何となく雰囲気が似てる、って。母ちゃんが前に言ってたよ」
    ジョウはちょっと驚いたように目を見開いた。が、すぐにニットキャップを目深にかぶる。
    「知らねえよ。母さんのことなんて、覚えてない」
    スレイが少しとまどったように、黙る。

    「アリエスはお節介なんだ。マディ婆とも仲良くて、よく家に遊びに来る。でもすぐに飽きるよ」
    ジョウが珍しく言い訳がましく答えた。
    スレイが苦笑いし、ふと気づいたように言った。
    「おまえ、最近そのニット帽ずっとかぶってんな」
    「・・・頭の怪我が多んだ」ジョウが仏頂面のまま答えた。


    ふたりはどちらからとも無くガウス撃ちを止めて、家路についていた。
    辺りはすでにグレイの帳が降り、空には深い藍色が広がってゆく。
    「おまえ、来年から親父さんの船に乗るんだって?」
    「ああ。やっと宇宙に出れる」
    ジョウは大切な宝物を確かめるように、そっと左手首を触った。銀色に光るクロノメーター。
    スレイがちらり、と羨まし気な視線を投げる。
    「おまえクラッシャーの必須科目は断然トップだもんな。俺ってば、まだスクールの最終単位数までいかないからなあ。いつ、宇宙に出れんのかなあ」
    自嘲気味にぼやく。ジョウが肩をすくめて答えた。
    「俺も言語学の単位落としたぜ。でも次の試験で絶対取り返す」
    黒髪の少年は小さな拳を握り、夜空を仰いだ。
    「はやく、あの宇宙<そら>を駆けまわりたいんだ」
    漆黒の瞳を煌かす。「言語学なんかに、かまってられるか」

    最後の呟きにブラウンの髪の少年は、吹き出した。
    そして、同じく星が光り始めた夜空を見上げる。
    「そうだな。クラッシャーの舞台はあそこだ。こんな地べたでぐずぐずしてなんて、いられない」
    「先に行って、待っててやるよ。今度はあそこが俺たちの遊び場だ」
    ふたりの少年はお互いの顔を見てにやりと笑い、そして競争するように家に向かって駆け出した。


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■873 / inTopicNo.11)  Re[10]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/09(Mon) 00:42:13)

     クリスマスの前日は静かな一日だった。
    マディ婆が部屋の掃除を終え、簡単な食事を作った。
    孫達が集まるのでぜひに家に来るようにジョウを誘ったが、今年は断った。
    生来独りで育ってきたせいか、あまり多くの人が会する場所を嫌うジョウだった。
    彼の性格をよく知っているマディ婆はしつこくは誘わず、小さな少年の頬にキスをして、よいクリスマスを、と言って帰って行った。

    陽が落ちてから、ジョウは独りで夕食をとった。
    壁に嵌め込まれたスクリーンには、銀河系の様々な場所で今宵催されているクリスマス・イベントが映されていた。

     父親が小さな娘を肩ぐるまして人混みを縫うように歩く。
     母親は寒そうに頬を赤くした息子の手をひき、はぐれないように言い聞かせる。
     着飾った男女が大きなツリーの前で寒そうに寄り添い、お互いの肩にもたれかかる。

    ジョウはつまらなそうにチャンネルを回した。クリスマス・キャロルのムービーが放映されている。
    ハミングバードがやってきて就寝の時間を告げたが、うるさいのでスイッチを切ってしまった。
    ソファに寝転がり、マディ婆が焼いて置いていったケーキを食べながらジョウはぼんやりスクリーンを見続けた。そしていつしか、緩やかな眠りに落ちていた。

    傍に置いていたリモコンが落ちる音で、目が覚めた。
    スクリーンからは教会からの中継で聖歌隊の歌声が聞こえていた。
    はっとして、時計を見ると12時少し前。
    「やべえ。早く水をかけないとつららが出来ないや」
    慌てて、玄関から外に出る。あまりの寒さに身震いした。
    アラミスも他の惑星と同じく、気象管理局がウェザーコントロールしている。
    しかし担当者の好みなのか、アラミスの冬は他の惑星より厳しい気がした。氷点下10度近く下がる日も多いし、雪もよく降る。
    もちろん、このイヴの夜はセオリー通り粉雪が舞っていた。
    かなり早くから降らしはじめたのか、すでに10センチ近くの積雪があった。

    庭先にある水遣りのホースを手に取ったジョウは、顔をしかめた。
    ホースの水抜きをしていなかった為、中の水がカチカチに凍っていた。これではモミの木に水を放水できない。
    ジョウは困ったように、雪の舞う夜空に伸びるモミの木を見上げた。
    6メートル弱のその樹木はのびやかに枝を四方に伸ばしている。そのてっぺんは2階の窓より幾分上にあった。
    (屋根から水をかけるしかないか・・・)

    自分の家の屋根に登ることなど、ジョウには難しいことではなかった。
    注意する人もいない家では、どんな危険な遊びも思いのままだ。
    ジョウはいくつかのバケツに水をいっぱいにして2階の窓辺に運んだ。
    玄関アーチの屋根を利用して2階の屋根に登り、括りつけておいたバケツを引っ張りあげた。
    眼下に見えるモミの木のてっぺんに勢いよくぶちまける。
    モミのわさわさとした枝が左右上下に揺れて、面白かった。この水をたっぷり吸った葉は翌朝には凍り、余分な水はつららとなって、この樹木をきらきらと飾るオーナメントとなってくれる筈だ。
    寒さも忘れて、ジョウは何杯目かの水をかけようとバケツに紐を括り、また屋根に登った。

    と、その時。
    雪で塗れていた屋根がジョウの足を滑らした。
    咄嗟にモミの木の枝を掴もうとしたが、柔らかい枝が災いしてジョウの手をすり抜けていった。
    ジョウの体は樹木の少し離れたところに落下した。
    降り積もった雪のせいで、くぐもった鈍い音がしただけであった。

    動かない小さな身体を暗い夜空から舞い落ちてくる雪がすぐに覆い、見えなくしてしまった。
    あたり一面の白い世界がすべての音を消し去り、ほのかに光る雪だけがゆっくりと螺旋を描きながら、聖夜の闇に降り続いた。


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■875 / inTopicNo.12)  Re[11]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/10(Tue) 10:42:28)

    ジョウは気がつくと、あたり一面がほの白く光る世界に居た。
    しかし、それはさっきまで降り続いていた雪の世界とは違う。
    なにかぼんやりと光る、しかし目を細めるほど眩しくはない空間にひとり佇んでいた。

    誰かの声が聞こえたような気がした。
    ジョウは着ているセーターの裾がひっぱられているのを感じて下を向いた。
    彼の膝元で、ひとりの黒髪の男の子が大きな碧い瞳でジョウを見上げていた。
    その碧い瞳に何故か見覚えがあって、ジョウは首をかしげる。
    「どうした?」
    ジョウは男の子の目線に合わせようと、しゃがみ込んだ。
    と、いきなり眩暈が襲う。いや、周りの景色が揺れたのか。

    気がつくと、男の子はもう居なかった。
    少し離れたところで、女性の声がした。
    見ると先ほどの男の子が女性に手を引かれて、歩き出そうとしていた。
    男の子は名残おしそうに振り返り、ジョウの方を見ている。
    すらりとした女性は長い黒髪をふわりとなびかせ、手を引く男の子を見た。
    その横顔はアリエスだった。
    ジョウは何故だか、無性にふたりについて行きたくなった。
    居てもたってもいられず、ふたりに向かって歩き出した。

    「だめよ。ジョウ」
    涼やかな声が、しかし厳しく言った。
    ジョウの足が思わず、止まる。
    「来てはだめよ。戻りなさい」
    アリエスが顔をわずかに向けて、静かに言った。
    その瞳は見慣れたアリエスの碧い色ではなく、夜のような漆黒だった。


    「意識が戻ったようです」
    男性の低く、ひそめた声が聞こえた。
    ジョウは鉛のように重くなった瞼をゆっくりと持ち上げる。
    とても長い時間がかかったような気がした。
    ようやく開けた視界はとても眩しく、また一瞬目を閉じる。
    「ジョウ」
    また名前が呼ばれた。女性の声だ。しかし、さっきの声とは違うようだった。
    今度はすんなり瞼が開き、瞳を動かしてみた。
    視界の中に、碧い瞳に涙をいっぱいためた、アリエスの姿が入ってきた。
    「体温もほとんど正常に戻ったね。もう大丈夫」
    アリエスの後ろから四十前後の眼鏡をかけたドクターが覗き込んでいた。
    優しく、しかし少し呆れ気味に笑って言葉を続けた。
    「しかし、ロックアイスみたいになって運ばれてきた時はどうなるかと思ったよ。丈夫に産んでくれたお母さんに感謝だな。これからはこんな雪の日に屋根なんかに登って遊んじゃ、いかんよ」
    どうやら、アリエスを母親と思っているらしかった。
    「ここは夜勤の看護婦もいます。お母様はご自宅にお帰りになっても大丈夫ですよ」
    「いいえ」
    アリエスはドクターを見上げ、きっぱりと言った。
    「今晩はこの子とずっと、一緒に居ます」
    そうですな、と言うようにドクターは優しく笑って幾つかの注意点を指示した後、病室を出て行った。

    「ジョウ・・・」
    上体を屈め、アリエスが細い指でジョウの柔らかい前髪を優しくかきあげる。
    そのままジョウの頬に手を置いたところで、動作が止まる。
    「ごめんなさい。私が・・・つららのツリーを楽しみにしてたから」
    声を抑えるように、左手で口元を覆う。
    「あなた、あんな雪の中。屋根に登って・・・」後は言葉にならなかった。
    堰を切ったように碧い瞳から涙がこぼれる。
    ジョウに覆い被さるようにベットに身を伏せて、アリエスは嗚咽を漏らした。


    はじめに気付いたのは、バトラーだった。
    夜中に吠え続けるレトリバーを叱るために、アリエスは庭先に出た。
    しかし、異常に興奮しているバトラーはアリエスが小屋に入れてしまおうと画策している隙に、道路に飛び出して行ってしまった。
    あわてて追うアリエスは、ひとつ先のブロックにある家にバトラーが駆け込んで行くのを見た。
    (あれは・・・)
    つっかけてきたガーデン用のブーツで足元が滑る。何度も転びかけながら、アリエスはジョウの家に辿り着いた。
    「バトラー!」飼い犬の名を声をひそめて、呼ぶ。
    しかし深夜にもかかわらず、ジョウの家には灯りが点っていた。
    (まだ起きてるのかしら?)
    バトラーが近くのモミの木の傍で、懸命に何かを脚で触っている。
    アリエスは走り寄って、その小さな雪が積もった塊を覗き込んだ。
    紺色のセーターが見える。あわてて積もった雪を払い、凍っている黒髪の小さな頭を両手で膝の上に持ち上げた。
    ジョウは起きてはいなかった。そして、氷のように冷たくなっていた。



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■876 / inTopicNo.13)  Re[12]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/10(Tue) 10:45:05)


    「もし、あなたがこのまま目を覚まさなかったら・・・」
    アリエスの細い指が白いシーツを掴む。
    「もし、またこの日に天使があなたを連れて行ってしまったら、わたし・・・」
    それ以上何も言えず、アリエスは唇を噛み締めた。

    ジョウの小さな手がアリエスの雪で濡れた黒髪を撫でた。
    「ルカに会ったよ」
    身を伏せた姿勢のまま、アリエスは動きを止めた。ゆっくりと泣きはらした顔を上げる。
    「今、なんて?」
    ジョウはぼんやりと天井を向いたまま、呟くように言った。
    「小さな男の子と会った。俺のセーターをひっぱって、一緒に遊びたそうだった」
    そして、ゆっくりとアリエスの方に顔を向ける。
    「アリエスと同じ、碧い瞳をしてた」

    しばらくの間、アリエスはじっとジョウを見つめていた。
    そして突然、両手で口元を覆い、再びはらはらと涙をこぼし始める。ジョウはあわてて、言葉を継いだ。
    「でも、ひとりじゃなかったよ」
    「ほんとう?」
    ジョウが頷くと、アリエスは涙をこぼしながらも、少し安心したように肩を落とした。
    (そう、ひとりじゃなかった。手を引いてた女の人・・・あれは)
    「元気そうだった?」
    アリエスが身を乗り出して訊いてきたので、ジョウは想いは遮られた。
    「う、うん。たぶん。でも・・・」
    「でも?」
    「もしかしたら、遊び相手が居ないのかも」
    ジョウは自分のセーターをひっぱっていた小さな手と、名残惜しそうに振り返る碧い瞳を思い浮かべた。
    「ルカはきっと、弟や妹が欲しいんだ」
    突然のジョウの言葉にアリエスは目を瞠る。そして少し困ったように眉を寄せた。
    「でも、もうそんな・・・勇気がないの」
    また失ってしまうかも知れない、それが怖い。そうアリエスは自分のなかで呟いた。
    「そんなの、だめだ」
    ジョウが黒い瞳を強く光らせて言う。
    「アリエスは元気に生きてる。生きてるヤツがそんな弱いこと言ってちゃ、だめだ」
    小さな手が、自分の頬に置かれたアリエスの手に触れる。
    「ルカが天国から見ていても楽しくなるくらい、家族をいっぱいにしてよ」

    ジョウの言葉にアリエスが思わず、小さく笑う。
    「そんな簡単に言われても・・・。ガーベイの休暇次第よ」ちょっと頬を赤らめながら言う。
    ジョウがきょとんとしている様も、また可笑しかった。
    そして、弟や妹が欲しいのはこの子かも知れない、とふと思った。
    楽しくなるくらいのいっぱいの家族。
    同じ食卓を囲み、毎日顔を見合わせて笑える家族。
    人一倍気丈なこの少年は全くそんなそぶりは見せないし、自覚もしていないかもしれない。
    しかしその強さは裏返すと、寂しさや人恋しさに押しつぶされない為に、この小さな少年が無意識に身につけてしまったものなのではないだろうか?


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■877 / inTopicNo.14)  Re[13]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/10(Tue) 10:47:58)

    アリエスは突然、寒いから入れてね、と言ってジョウのベッドにするりと入ってきた。
    確かに薄着のまま家を飛び出して、彼を病院まで運んだアリエスの身体は冷え切っていた。
    ジョウは驚いて起き上がろうとしたが、腕に点滴が刺さっていて身動きができない。
    アリエスは肘をついた右手の上に頭をのせ、ジョウの顔を覗き込んだ。
    左腕は小さな身体を守るようにジョウの身体の上に置く。
    ジョウは顔をわずかに赤らめて、そっぽを向いた。

    「決めたわ。わたし、赤ちゃんいっぱい産むわ」
    嬉しそうに、アリエスは言った。
    「そしてジョウにお兄さんになってもらうわ」
    「え?」
    「生まれてくる子たちも、お兄さんが欲しいと思うのよ。でも、ルカは遠くにいるもの。遊んでもらえないわ」
    「で、でも俺、来年から船に乗るし・・・」
    「あら、たまにはアラミスに帰ってくるんでしょ?」
    アリエスは悪戯っぽく笑って言う。

    「それに・・・わたしがいつもジョウのことを子供達に話すから大丈夫よ。
    『あなた達のお兄さんは腕っこきのクラッシャーでね、宇宙を駆け回ってるの』って。
    きっとうちの子のクラスメイトはみんな、羨ましがるわ。
    『ええ?あのジョウがおまえの兄貴なの?すっげー!』ってね。
    それで私たち、みんなに得意満面であなたの自慢をするのよ」
    アリエスが淀みなく詠うように話している様を、ジョウは口をぽかんと開けて聞いていた。

    そんなことにはおかまいなしに、アリエスは楽しそうに話しを続ける。
    「クリスマスの夜は皆であなたの家のモミの木を、つららで飾るわ。もちろん、屋根に登ったりはしないわよ、危ないもの」
    アリエスは自分で言って、小さく笑う。
    「そして、皆で夜の通りのイルミネーションを見に行くわ。通りの灯りが夜空の星々と溶け合って・・・それは綺麗よ。そして白い息を吐いている小さな弟や妹に言うの。『あの星々の間には、あなた達のふたりのお兄さんが居るのよ』って」
    言葉を連ねながら、アリエスの声がだんだんとかすれてきた。
    ジョウが驚いて横を見ると、アリエスの白い頬に涙が一筋、伝っている。
    声をかけられるのを防ぐように、アリエスはジョウの小さな頭を優しく引き寄せた。
    「私たちあなたのことを、いつも想ってるわ」
    柔らかい癖のある黒髪に頬を当てる。
    「だから自分がひとりだなんて、思わないで」


    ジョウはいつもの一方的なアリエスの話を、最初は半ば呆れながら聞いていた。
    しかし、楽しそうに話しているアリエスの声と落ち着くいい香りに包まれて、だんだんと気持ちが柔らかくなる。
    そして最後にアリエスが言った言葉で、何かが急に込み上げてきた。
    今までずっと無意識に押さえ続けてきたもの。自分には必要ないと諦めていた。
    ジョウはあわててきつく目を閉じ、アリエスの咽元に顔をうずめた。

    「10年後のあなたに、会いたいわ」
    ジョウの柔らかい黒髪に頬をつけたまま、アリエスがぽつりと言った。
    「どんな青年になっているのかしら?」
    10年後?と、頭の中で繰り返す。
    ジョウの生活している環境では、その年頃の青年と接する機会は少ない。
    19歳になっている自分を、ジョウは想像できなかった。

    「絶対かっこいい男になってるわ。きっとモテモテよ」
    アリエスが想像して嬉しそうに言う。
    「どうでもいいよ、そんなこと」
    ジョウは頬を赤くしたまま、むっつりと答える。
    「俺は仕事だけでいいよ。そんなこと考えている暇なんてない。それにクラッシャーなんて仕事してたら、出会いなんてない、ってマディ婆が言ってたよ」
    確かにダンのチームのガンビーノやタロスにしても、男やもめで宇宙を飛び回っている。
    「それはよくないわ!」
    アリエスは眉をひそめて、きっぱりと言った。
    「かっこいいジョウがパートナーも見つけずに、おじさんになるなんて絶対ダメよ!」
    ジョウのどんな姿を想像しているかは分からないが、アリエスは何度も首を小さく振って呟く。
    「それに・・・」
    まるで子供を寝かしつけるように、左手でジョウの背中を軽く叩く。
    「こんなに寂しがりやで意地っ張りなあなたは、彼女がいないとやっていけないわ」

    ジョウが口を尖らして何かを言い返そうとするのを遮るように、アリエスはジョウの額に軽くキスをした。
    「ア、アリエス・・・」
    目を白黒させている少年のことなど気にせず、碧い瞳がぼんやりと遠くを見る。

    「10年後、どんな娘があなたの隣にいるのかしら・・・」


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■880 / inTopicNo.15)  Re[14]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/11(Wed) 01:58:15)


     ジョウはゆっくりと覚醒した。
    リビングのダウンライントの光にその漆黒の瞳がさらされる。
    思わずもう一度目を閉じ、光の残像が消えるのを待ってからゆっくりと瞼を開く。
    ソファの広い背もたれが目に入った。またソファに横になって眠ってしまったらしい。
    リビングでデータ整理などの仕事をしていると、よくあることだった。

    (それにしても、やけにはっきりした夢だったぜ・・・)
    横になったまま、左手で癖のある前髪を掻きあげる。
    一部あやふやなところはあったが、殆ど自分の幼少の出来事だった。
    すっかり忘れていた事なのに、今頃なぜ?
    ジョウはふと、思い当たった。数日前にスレイと久しぶりに話したからだな。
    ひとり苦笑して起き上がろうとした時、急に悪寒が襲った。
    (何もかけないで、うたた寝していたからか?)
    ジョウのその考えは甘かった。


    アルフィンはキッチンへ向かおうと廊下に出たところで、リビングのライトがつけっぱなしになっているのに気付いた。
    (ジョウかしら・・・?)
    スライドしたドアを抜けて、静かに室内へ入る。
    そこには予想通り、ジョウが居た。
    テーブルの上にはPCと幾枚かの書類が散らばっている。
    彼はソファの上に背もたれに向かう格好で眠っていた。腕を胸の前で組み、窮屈そうに脚を曲げている。
    立てばすらりと長身なジョウが、子供のように少し丸まって寝息をたてている様は、少し可笑しかった。
    (仕事の時はあんなに厳しい顔をしてるのに。か、可愛い・・・)
    アルフィンは細い指を口元にあて、こみあげてくる笑いを防いだ。

    近くのクロゼットからブランケットを取り出した。
    彼の大きな背中からかけてあげようと、両手に広げる。
    その時、ジョウが何か呟きながら上体を動かした。
    アルフィンは一瞬息をひそめる。そしてゆっくりとジョウの顔を覗き込んだ。
    眠っているせいか、わずかに頬が赤い。

    (誰の夢をみているのかしら・・・)
    −わたしのことだったら、いいのに。
    そう思ってアルフィンはひとり恥ずかしそうに、微笑んだ。
    と、その考えが通じたかのように、ジョウの口から今度ははっきりと言葉が漏れる。
    「あ・・」
    「ア?」完全にアルフィンの頭の中では、その語から始まる言葉(名前?)に変換されている。
    碧い瞳を輝かせ、彼女は次の言葉を待った。


    「アリエス・・・」



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■881 / inTopicNo.16)  Re[15]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/11(Wed) 02:04:26)

     人の気配を感じてジョウはソファに横になったまま、ゆっくりと肩越しに後ろを振り返った。
    クリーム色のブランケットを握り締めている白い手が見えた。
    そのまま視線を上にあげる。アルフィンが立っていた。

    (ああ。あの碧い瞳、どこかで見たことがあると思ったら・・・)
    ぼんやりそんなことを考えていたジョウは、急に我に返った。
    何故なら、眼前にある碧眼は冷たく激しい炎のように揺らめき、ジョウを睨んでいたからだった。

    いつもの寝起きからは考えられない速さで、ジョウは跳ね起きた。
    頭の芯が信じられないほど急速に覚醒してゆく。
    「え・・・と、アルフィン」
    目の前に立つ殺気溢れる少女に向かい、ジョウはなんとなくひきつった笑いを浮かべて話しかけた。
    「どうしたんだい?」

    しばらく黙ったまま、燃える双眸でジョウを睨み上げていたアルフィンがようやく口を開く。
    「・・・たのよ?」
    「え?」
    「なんの夢を・・・見てたのよ?」
    地獄の底から聞こえるかと思うほど、低く押し殺した声で訊く。
    身の危険を感じたジョウは、あわてて答えた。
    「ああ。何か、見てた気がする。けど、もうよく覚えてないなあ」
    自分でも中途半端な答えだ、と思いながら曖昧に笑った。

    次の瞬間。アルフィンの手が一閃した。
    「ってえ」
    ずば抜けた反射神経のジョウもよけきれない、アルフィンの平手打ちだ。
    しかし、そんなことぐらいでは彼女の怒りはおさまらず、手に持っていたブランケットも投げつける。
    「なんだよ!」
    ジョウもいきなりの攻撃に声を荒げた。
    「誰よ!」
    アルフィンはそんな声に動じることなく、鋭く言い放った。燃える碧い瞳にみるみる涙が盛り上がる。
    「誰なのよ!?アリエスって!」


    ジョウは咄嗟に何も言えず、黙り込んだ。
    そこで上手くはぐらかせるような器用さを、彼は持ち合わせていなかった。
    自分は何か、寝言で言ったのか?そう言えば最後、アリエスの名前を呼んだような・・・。
    黙っているという事は、その事実を認めたということだった。
    「あたしの知らないところで・・・」
    悔しくて涙がぽろぽろと零れ落ちる。
    ジョウはアルフィンの涙が苦手だった。このまま泣き崩れるのか?近づこうと一歩前に足を踏み出した。
    が、しかしジョウの右足がマットに沈む前に、手近にあったマグカップが飛んできた。
    「うわっ」
    「ばかっ!女ったらし!」
    アルフィンは愁傷に泣き崩れたりなどせず、猛然と攻撃に転じていた。
    目にも止まらぬ速さで、次々とテーブルの上にあるものを投げつける。
    「やめろ!ち、ちょっと、俺の話も聞け!」
    ジョウが両腕で頭を庇い、上体を低くしながら喚いた。
    「言い訳なんか、聞きたくもないわ!」
    アルフィンは碧眼から流れる涙を拭おうともせず、テーブルサイドに積んであるニュースパックの山に手を伸ばした。

    (アリエス。10年後俺の隣に居る娘は、こんなんだぜ・・・)
    ジョウは次々と飛んでくるものを避けながら、苦笑いして呟く。
    彼の脳裏に浮かんだアリエスの碧い瞳が、悪戯っぽく笑った気がした。

    −その瞬間。
    真鍮製のフロアスタンドがジョウの側頭部に直撃した。


    <END>


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■882 / inTopicNo.17)  Re[16]: Trouble with women
□投稿者/ 香夏 -(2005/05/11(Wed) 02:07:57)

     最後までお付き合いいただき、有難うございました。
    初の中編は章の切りどころがイマイチ分からず、読みにくい点多々あったかと思います〜。
    −お気づきになった方もいらっしゃると思いますが。
    J氏の口から「アリエス」と云わせるためだけに、「ちびJ*SS」書き始めました。(笑
    でも9歳の彼を書いているうちに(年齢の割にはしっかりし過ぎ?@汗)もー、愛しくなっちゃって。
    気分的にはずーっとちびJを「ぎゅう」して書いてましたvv

    でもやっぱり。J氏だとオチが鮮やかに決まらないので(泣
    タイトル説明も合わせたドンゴオチ☆別エピソード、近日中追加UP予定?(ノ^^)ノ

fin.
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