| ひとしきり笑い転げて、喉が渇いた。 今度はアルフィンがリビングへ引っ込み、すぐさまバルコニーに戻る。気分的に乾杯したい。セルフバーで冷えていた カクテルボトルを、二本手にする。
こっそりスクリューキャップを開けた。一口だけ先に失敬する。しょうがないな、と彼に一本だけ許可させるためだ。
彼は背中で柵に寄りかかり、月を見ていた。 さっきより移動している。高いところに。
「すげえな。あの高度で、地平線と変わらないサイズに見える」 「もっと低い時間帯…日没だと、大きさどれくらいだったかしら」 「目の錯覚とはいえ、気になるな」 「次回のプリンセス・ムーンで確かめたくなあい?」 「そいつは仕事次第」 「んもう、それは承知の上でのリクエスト。いいぞ、くらい言って欲しいのに。希望もないわ」
彼女の頬が、ぷうと膨らむ。 ストレートな反応が可愛い、とでも言いたげに、彼の目尻がわずかに下がる。ややあって、その口を開いた。
「いいのか? 希望で」 「だって、今回みたいにアラミスのご指名がきたらお手上げ。そこは分かってるわ。このところ増えてるし…だからこそ 希望くらい持ちたいの」 「二週間の休暇予定が一泊二日に大幅カット。そうなんだよな、本部も麻痺してやがる。名誉であるはずの指名が、 ありがた迷惑だ」 「過度な期待はしません。でもジョウ、ちょっとくらい、ねえ」
ねだるように、甘いまなざしを向ける。
「──アルフィン。本部からの無茶ぶり、リストアップしとけよ」 「え?」 「高いもんにつくってこと、思い出させてやる」 「え…もしかして。次のプリンセス・ムーン…に?」 「一方的に仕事ふってみやがれ。たっぷり利子つけて突っ返してやる」 「……」 「仕置きだ」
彼が決めたら、必ずやる。
アルフィンは見開いた碧眼を、嬉しそうに細めた。感極まったまま、わっと駆け出す。勢いのまま彼の胸に飛び込んだ。 ジョウはたじろぎながらも、いつもの反射として受け止める。
「ありがとう! ジョウ!」 「は、早まるな」
アルフィンは彼の上体に両腕をまわす。しゃにむに抱きつく。モスグリーンのヘンリーネックシャツ、その右肩に頬を押しつけた。 回りくどい優しさ。しかしスマートに約束されたら、かえって嘘くさく感じてしまう。照れ屋な彼らしいやり方。 満足だった。
彼の背中に回した両手には、各々ボトルが握られている。もどかしい。広く、頼もしく、鋼の身体をしっかり掴みたいのにできない。 ん、とアルフィンは身体を寄せて、より細腕に力を込めた。密着させた。
かたやジョウの両手は、どこに置いてよいやら迷う。不格好なまでに宙に浮く。精悍な顔が、瞬く間に上気していった。 ──まずい。 アルフィンがはしゃぐ度に、彼は追い詰められていく。おそらく無意識の行動だろう。余計にたちが悪い。
む、胸が…。ジョウは肌がじんわり汗ばむのを自覚した。若さがみっちり詰まった、二つの、まあるい感触。 クラッシュジャケットを着用していないのに、着ている感覚で抱きつかれてはたまったものではない。
弾むような肉感が、鍛え抜かれた胸板を圧迫する。動くな、頼むから。言葉で彼女を制御したいが、うっかり妙な声や息を 吐いてしまいそうで出来ない。 離れるまで耐えるしかないのか。 彼は奥歯をぐっと噛んだ。
「嬉しすぎて、めまい起こしそう」
笑い飛ばすはずが、こわばる。まずい…駄目だ。艶めかしい拷問に、辛くなってきた。 しかしここが踏ん張り所でもある。
肩を剥き出しにしたサンドレス姿。17歳の肌はぴんと張り、月光を吸い寄せたように、蒼白く透き通って見える。 肩から指先、鎖骨から流れる曲線、腰から下の爪先まで。彼女の全身は、柔く清いこの肌で被われていると考えただけで身震いする。 男の性がほとほと恨めしい。
おまけに、幸か? 不幸か? あの2人がいない。 久方にテラへ降りたタロスは、懐かしの地へ向かったようだ。リッキーは行方知れず、いや、自由行動で思い切り羽を伸ばしている。
今宵ホテルに帰って来るのか確認しなかった。こんな甘い誘惑に絡まれると予測できたなら、対応は違っていた。 這ってでも帰って来い。リッキーにだけでも釘を打てた。
金髪から放たれる彼女の匂い。シャンプーのような合成的なものではない。アルフィンそのものの匂いだ。男の鼻腔を容赦なくくすぐる。 酔わされる。 頭の中が、理性の芯が、とろとろにおかしくなっていくのが分かる。
ジョウの首筋に触れる、頬の感触。つまり唇まで数センチ。何かの拍子でタッチもありえる。そんなアクシデントを脳裏にほのめかせ、 彼は眉間に一本、深い皺を刻んだ。 健全な肉体と精神を弄ばれているようで、苦しい。
彼女に引きずられない、取り込まれてはいけない、まだ今は。抱きつかれながら彼は天を仰いだ。 月光が全身に降り注ぐ。 この場でもっとも遠ざけねばならない人狼伝説を思い出してしまった。月夜の晩、狼へと豹変する男のストーリー。 ここにも一人、危うい男がいる。
この先を、本能のままに突き進む。アルフィンの好反応をみていれば、秘密の奥底まで踏み込んでも良さそうではある。
「……、……」
そう思い巡らせただけで、ジョウの肌は粟立った。心拍も急上昇。さっきまで汗ばんでいた両手が冷たい。全身の血が 腰一帯に集中したせいだ。彼女に身を寄せられたままで、発情をどう抑え込めばいいか……頭が回らない。
「…変」
彼の真下から、碧眼がひょっこり向いた。ジョウは反射的に見下ろす。互いの鼻先が触れるまで十数センチ。 越えるか否かの一線が、眼前にある。頭をあと少しもたげれば、味わえる距離だ。
が、しかし。
「やだ、もう、どうしちゃったのよ」 「──え…っ?」 「ジョウ、すっごくどきどきしてる。具合でも悪い?」 「いや、ちが…」
気恥ずかしくて、逃げ出したい。いっそ消えたい、この拘束を即座に解除して。ジョウの考えはそこ一点に向けられる。
「──ア、アルフィン」 「なあに?」 「さっきから、その、あ…当たって、る、んだが…」
きみの胸が…とまで明確には言えなかった。が、直後に悔やむ。馬鹿正直にもほどがある。 情けない切り出し方だった。
しかしその後悔は杞憂に終わる。
「ごめん。痛かったのね、これが」 「──う?」 「はい。もうぬるいかもしれないけど」 「──??」
右手に渡されたボトル。ラベルからカクテルと分かった。
ジョウの脳内はとっ散らかったままだ。即、対応できない。ただ、ただ、固まる。
するとサンドレスの裾を揺らして、アルフィンはくるりと半回転。彼から離れた。右隣に並ぶと、同じように背を柵にもたれる。 ふふふ、と悪戯っぽい目つきでジョウを見上げ、悠々とした手つきでスクリューキャップを開けた。
「月にカンパイ」
小指をぴんと立てて、アルフィンはくうっとボトルを傾けた。
彼の動揺も、邪心も、悶絶も、落胆も、まるで伝わっていない様子。はあ、と肩でひと息つく。良かったのか、悪かったのか…いや、 これで良かったのだ。彼女の全身から、ご機嫌なオーラが放たれている。 口約束でしかないのに、こんなにも喜ぶ純粋さが彼には眩しかった。
欲情に濡れた目をこれ以上向けては駄目だ。ジョウはくるりと身体を翻し、柵を前に寄りかかる。山麓まで、ずっとずっと遠くまで つながっている、黒い海原のような樹海を眺めた。
男として満たされないことが、彼女の身を守るという矛盾。幸福や快感を同時に感じ得る日は訪れるのか。 あの樹海のように道筋は見えてこない。
「取り替えてこようか」 「うん?」 「冷えてないカクテルって、がっかりでしょ?」 「いや、これでいい」
なかなか飲まないジョウを、彼女は気にかける。無邪気に男を翻弄しているとは、露程も分かっていない顔。 体つきだけが大人なのだ。女として乱れる姿と、あどけない目の前の姿とがダブらない。
ジョウはキャップを開けた。ぐびりと喉仏を上下させる。甘さとほろ苦さが、もやっと生温かい。 ぼんやり誤魔化された、自分の心境にぴったりくる。
とんだ夜だな。 ジョウのぼやきを、スーパームーンは黙って照らし続けた。
〈FIN〉
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