| 目の前に広がるのは、横長でパノラマな黄金色の風景。 夕暮れ近い晩夏の空は、優しいオレンジ色に綺麗に染まり、少年の影は金色に輝く薄(ススキ)の波上に長く長く伸びていった。 ハイウェイと薄の草原を隔てる朽ちかけた木製の柵に、その少年はちょこんと腰掛け、もう何時間もの間を無言で目の前に広がる金色の波を眺めている。 もう夏が終わる。季節はゆっくりと秋に向かっていく。 薄の草原の向こう側には、収穫を終えたばかりの小麦畑。ところどころに、刈り取った小麦を寄せ集めて出来上がった小山が、ぽつりぽつりと点在するのが見えた。 さわさわと薄の穂上を滑っていくアラミスの風をその頬に感じながら、その赤毛の少年は夏の名残の少し湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。熱く、青臭い草の匂いが鼻腔をくすぐる。少し懐かしく切ないような気持ちになって、彼は今一度自分の周りの風景を見渡した。 まるで一面がオレンジ色に切り取られた絵のようだ。 オレンジの空、オレンジに照らされた薄の草原とその中に存在するたくさんの生命たち。自分さえも、いつの間にか周りに存在しているもの達と共に、このオレンジに取り込まれていくような錯覚を覚え、彼は一瞬目を瞬かせた。
考えてみれば不思議な話だ。ほんの数年前までは、ククルの真っ暗な地下街から出ることなど一生叶わず、泥に塗れるように生きていくしかないと思っていた。自分の生きるテリトリーを、その都度変えながら唯生きるためだけに生きる日々。未来を夢見るなどありえない。きっと、一生モグラのように、地面の下で日の目を見ることもなく、どこかで野垂れ死にするまで這い蹲って生きていく。自分の人生などそんなものだと、ずっと信じて疑わなかったというのに。
少年は、右手で弄んでいた薄の穂をポイと放り出したかと思うと、勢いをつけて柵から飛び降りた。足の裏にアラミスの温かい草原の感触が伝わる。草花の息吹、虫の蠢く気配、寛容な大地の営み。今、彼を取り巻いている全てのもの達。生命力に満ち溢れた力強く温かいもの。 (あったかいなあ) 少年は足の下の草を踏みしめながら、そう思う。 数年前には決して有り得なかったこと。必死で地面の下から這い出して、この太陽の下にやってきた。たくさんの花々、たくさんの生き物たち、からだを撫でる風、大地の感触。昔憧れてやまなかった全てのものが、今ここにある。
なのに。 今日のように夕焼けがあまりにも綺麗だと、なんだか今の自分がウソの様に思えてしまい、かえって不安になる。こんなに綺麗でいいのかな。こんなに幸せでいいのかな。その生い立ちがそう思わせるのか、少年は今でも心の底から「幸福」を信じることができない。 だって、昔はこんな夢を何度も見たから。何度も何度も夢に見て、夢から覚めるその度に、何度も何度も失望した。神様なんて信じない。願ったって無駄なのだ。どんなに助けてくれと願っても、周りではたくさんの仲間がいつの間にか消えていく。だから、この世には神様なんていやしない。その代わり、自分の力でどんなことをしても生きてやろうと決めたんだ。一日でも長く生き延びる為に生きる。そのためには手段を選ばない。 あの頃は確かに、そう、思っていた。 だから、この網膜に映っている世界が夢なのではないかと、今の自分は思ってしまう。こんなに幸せでいいのかな。こんな風景の中に俺らなんかがいて本当にいいのかな。幸せであるのに申し訳ないような変な気持ち。満たされているのに満たされてはいけないようなモヤモヤした気持ち。 (ああ、そうだ。ここに来るといつもこうなっちまう) なんだか不意に涙が出そうになって、彼は唇をかみ締めながら立っていたその場所に腰を下ろした。そのまま膝を抱えて小さく蹲る。そして瞳をぎゅっと閉じて、自分を守るように身を固くしたまま、じっと動かなくなった。
そんな時。 彼の後方のハイウェイから、エアカーのドアを閉める音が小さく聞こえてきた。視界の端で音の方向を見ると、蹲った彼の小さな影の横に、いつの間にかスラリと伸びる長い影が見える。その影はゆっくりとこちらに近づいて、彼が少し前に飛び降りた柵の前でピタリと止まった。彼の小さく蹲った影の横に、草原の向こうまで真っ直ぐに伸びる長い影。
「なにやってんだ、こんなところで」 凛として張りのあるその声は、少し呆れ、それでいてどこか安堵したような響きを含んで、少年の頭の上から降ってきた。少年は顔を上げて振り返り、もうすっかり見慣れてしまったアンバーの瞳を見つめ返す。 「兄貴」 「アルフィンがカンカンだぞ。もうメシの時間だってのに、リッキーがいつまでも帰ってこないってな。お陰で、俺はさっさとお前を見つけ出して連れ戻せとのお達しを受けた」 クラッシャージョウがその両手を腰に当て、苦笑しながらリッキーを見下ろしていた。そして、目の前の柵にその右手をついたかと思うと、一気に体の重心を掛けヒラリとその柵を飛び越える。両手を叩いて手についた埃を払い、そのままリッキーの頭もポンと叩いた。 「…たく、3時間も帰ってこないから、どこに行ったかと思ったぜ」 両腕を組み柵によりかかりながら、ジョウはリッキーに話しかけた。 「…今夜のメニューはなんだって?」 リッキーが、薄の波を眺めながら聞く。 「ビーフシチュー。出来立ての美味いとこを食いたけりゃ即行で戻って来いとさ」 「スゲエ。俺らの大好物」 「だろ?俺も好物だ。だからできれば、これ以上お姫様の機嫌を悪化させることは避けて通りたい」 「ごもっとも」 「よし。じゃあ、暗くならないうちに戻ろうぜ。今日は昼から評議会に呼ばれて、お偉いさんの相手で疲労困憊だ。早くメシを食ってゆっくりしたい」 ジョウは、うんざりしながらそう話し、今来た道を戻るべく体の方向を変えた。そして、寄りかかっていた柵に手を掛けて、それを飛び越えようとしたところで、リッキーが一向に立ち上がらない様子でいることに、ふと気がついた。 「どうした」 ジョウは、両手を柵にかけたまま頭だけをリッキーの顔に向けていぶかしんだ。リッキーは一向に動く気配を見せない。膝を抱えて蹲ったままだ。 「リッキー?」 ジョウは、リッキの顔を覗き込むようにして柵からその体を離し、彼の横にしゃがみこむ。そこには、どこか決まりの悪い顔をして、目の前の草原を見つめるリッキーがいた。 「リッキー」 ジョウは、もう一度リッキーの傍らに腰を下ろし、横から彼の顔を覗き込んだ。夏の夕暮れがそろそろと近づき、遠く地平線にはオレンジに燃える空の上に薄青紫色の夜が覆い被さろうとしている。
すると。
「…だと、思ってたんだ」 不意に、聞き取れるか聞き取れないかという小さな声でリッキーが話し始めた。 「なに?」 ジョウはリッキーの話した声が聞き取れず、耳を彼に近づけながら問い返す。 「俺らククルにいた時、自分のことをまるでモグラだって、思ってたんだ」 リッキーは、少しおどけるような声で、そう言った。
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