| 03: 「おはよう」 彼は話しかける。 まだ言葉というものを持たない小さな命に。 まだ自分で立つことすらできない命に。 まだそれはとてもか弱くて。 とてもいたいけなくて。 とても心もとない。 でも、力強いその瞳は言葉などなくても彼の瞳をしっかりと捉える。 その小さな手は彼の人差し指を強く強く握る。 彼は優しく目を細めて、そのいとしい小さな手をそっと握り返した。 「ダン」 彼の妻がカーディガンを肩にかけた姿で、いつの間にか傍らに来ていた。両手を腰に当てた格好で、困った人ねとでも言いたげに。 つい肩を竦めて苦笑う。 「ああ。すまん。起こしてしまったか?」 「いいえ。わたしはもう起きる時間なの。それよりあなたこそ、そんな格好で風邪をひくわよ」 いくら言ってもダメなのね、と呆れた口調でユリアは言った。 「大丈夫だ。宇宙(そら)に比べれば夏みたいなもんだぞ」 まるで子供のような言い訳をすると、すぐにダンは小さな息子に目をやった。 「でも、明日からまた仕事でしょう?チームリーダーは体調管理を万全にしておかないと」 「大丈夫だと言ってるだろう。俺を誰だと思ってるんだ?」 「そろそろ壮年に近いお年頃のクラッシャーダン」 「…言ってくれるね」 思わず苦笑して妻の腰に手を回す。そのまま彼女の顔を仰向かせ、啄ばむようなキスをする。 「俺はまだ40代だ」 「…まったく、負けず嫌いは相変わらずね」 柔らかく笑ったユリアは、ダンの顔を包み込むようにして、今度は自分からゆっくりとダンのそれに唇を重ねていく。 「…君だってそろそろ中年のお年頃だろう」 「失礼ね。わたしはまだまだ若いのよ。たまに帰ってくる壊し屋さんのお相手をエンドレスにするくらいなんでもないわ」 「それはそれは。いつも苦労をおかけする」 少しおどけた様子のダンに、ユリアはにっこりと笑顔を向ける。やがて部屋の奥からダンのカーディガンを取ってきては彼の背中に静かに被せた。そしてそのまま両腕を彼の首に巻きつけ、もう一度甘えるような口付けを。顔の角度を変えてダンの唇を甘噛みし、いたずらっぽく微笑む。甘く柔らかいその感触。久しぶりに味わう温かな身体。永遠とも思えるその甘やかなひとときに、ダンはどうしようもなく意識を奪われていくのが常だった。
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ーーーふと瞳を開けると、そこには見慣れた天井が見える。 窓からは小鳥のさえずりが漏れ聞こえ、カーテンからはキラキラ輝く朝の光が零れている。ゆっくりと身体をベッドから起こし、壁にかかったアンティーク時計で時刻を確認する。朝の6時15分。いつも通りの起床の時間だ。ぼんやりと夢と現を逡巡しながら、ダンはベッドサイドにある亡き妻のポートレートに目をやった。そこには白い花を抱えたユリアの姿。彼の日、別れた時のままの彼女がそこで微笑んでいた。 「…おはよう」 クラッシャーを引退してから、毎日繰り返される儀式。 まるで彼女の髪を梳くように、彼は右手で写真の彼女の頭を静かになぞる。 生きている彼女でも、もう写真でしか会えない彼女でも、してやることは変わらない。彼女の輪郭をなぞり、そして触れていく。 実際に体温を感じられなくても。 傍にいてもいなくても、彼女の存在は確かにダンの身体の奥にある。
静かにベッドから起き上がり、クローゼットから着替えを取り出す。シャツを羽織り、ネクタイをシャツの上から首に引っ掛ける。スーツのズボンを履きグレーのソックスを身につけ、スリッパを履いて1階のリビングへと足を向ける。 1階に着くとコーヒーのいい香りが漂ってきた。タイマーをかけておいたサイフォンが、いい頃合で琥珀色の液体の出来上がりを告げる。ダンは慣れた手つきで食器棚から自分のカップを取り出し、そこへ香ばしい香りのコーヒーを注ぎ込んだ。一口それを啜ってから、玄関の扉を開け新聞を取るためにポストに向かう。
気が付けば、いつの間にかもう初秋だ。 目の前の花壇に咲き乱れる一面のコスモス。風にそよぐピンク色の花たちは、ダンが歩くたびにその花弁を緩やかに揺らした。 風を感じながらゆれるピンクの花を見つめていた彼は、ふと枯れて茶色になった花柄を見つけその場にしゃがみこんだ。そして、それをむしりとり手のひらに乗せる。 以前、親子3人で過ごしたことのあるこの庭は、当時の記憶そのままにちっとも変わらない。 やっと歩き始めたジョウとユリアと休暇のたびにここで過ごした。 花が揺れて、二人の笑顔がキラキラ揺れて、楽しげにこちらを見ていた。 あの頃ユリアがやっていた庭の仕事は、今ではすっかり休みの日の日課となった。芝を刈り、剪定をし、雑草を抜く。ずっと中腰で作業をしていると、義足でない方の足が痺れてくることもあって、もうとっくの昔に壮年も通り過ぎた身には少々辛いと正直思っている。
ーーーホラ、いつまでも若いふりしてもダメなんだから。もう無理はきかないのよ。
そう言って、ユリアはきっと笑うだろう。 そうだ。もう若くない。 いつまでも若いつもりでいたが、あの赤ん坊だったジョウが、今や特Aランクのクラッシャーだ。クラッシャー評議会議長がわざわざ出向いて謹慎を言い渡したにも関わらず、そんなことはサラリと無視して、今頃はきっとラゴールに降り立っていることだろう。 恐らくは意気込みも荒くやる気満々で。自分に対する怒りと苛立ちを滲ませて。 容易に想像できる光景にダンは知らず苦笑した。 「…まったく、アレの強情さは誰に似たんだユリア」 あの日、別れ際に自分に見せた屈辱を噛み殺したジョウの顔。憎しみにも近い表情で自分を見ていたジョウの顔。きっと自分を見返したい一心で、これからも後先考えず突っ走っていくに違いない。
ーーーだってしょうがないじゃないの。ダンの子だもの。
「…まぁな」 ポツリと呟いて、こんな関係が今一番自分たちらしいのかも知れないともダンは思う。 優しい言葉はかけられない。 まだ幼かったジョウを<アトラス>へ乗せ、好むと好まざるに関わらず宇宙生活者としてのイロハを叩き込んだ。もちろん本人にもクラッシャーへの憧れがあったことは知っていたが、そんなことは関係なく有無を言わさずその厳しさを骨の髄まで叩き込んできた。今となってはーーーその可能性は限りなく低いと思ってはいるがーーー息子にとってもしかしたら「尊敬」と「憧れ」の対象であったかもしれない父親は、あの時点できれいさっぱり消滅しただろう。たまに資格更新の際にアラミスを訪れているはずの息子が、自分の前にはめったに顔を出さない理由を、痛いほどダンは理解している。今のジョウの中にある自分は「父」ではなく、目の前に押し迫ってくる巨大な壁であり、乗り越えなければならないやっかいな障害だ。むしろ肉親であるからこそ、単純ではない、混沌とした思いが二人の間には悠然と横たわり、ダンの真の声は容易にジョウには届かない。
ダンは手のひらにあるコスモスをしばらく弄んでいたが、やがて思い切ったように顔を上げた。そして、突き抜けるように晴れ渡った空を見上げ、いつものようにその視界の彼方に<ミネルバ>を追う。 言ってやりたいことは山ほどある。 伝えておきたいことも星の数ほどある。 それはジョウがこの家を去ってから静かに降り積もり、今では溢れ出さんばかりになっている。
しかし。
言葉など取るに足らないものだ。言葉などを使わずとも伝わるものは伝わるし、いくら思いつくだけ言葉を並べても伝わらないことがこの世にはごまんとある。 特に男ならば。 自らの重荷を自分の力で下ろして初めて、見えてくる世界というものもあるのだ。 いざとなれば、一発くらい殴られてやる覚悟はとうにできている。
「…さて。お手並み拝見だぞ」
ポストから抜き取った新聞を脇に抱えながら、ダンは秋空に向かって語りかける。遠く雲の上で鳴くヒバリを小さく右手を翳して見上げた。 世界は広い。 その世界をどこまで広げられるか。 限界を突き抜けてどこまで突っ走れるか。 彼の愛機に流れる流星は、紛れもなくその象徴だ。
傍にいてもいなくてもーーー。
「まあ、がんばることだな」 どこか楽しそうな笑みを浮かべながら、ダンは家の中へ戻っていく。 そんな彼の足元で、朝日を浴びたピンク色のコスモスが笑ったような気がした。
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