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誰もいなくなったリビングでジョウはまたチョコを眺めていた。リッキーとタロスがいなくなってゆうに1時間は経つ。 彼らはチョコ事件に飽きたのだろう。 「んじゃ、がんばって」 などと無責任な激励の言葉を残し、ひらひらと手を振ってリビングを出て行った。 ジョウはひとり残された。 3人で大騒ぎをした後なので妙にわびしい。 ジョウはふうっとため息をつきチョコを指でころころと転がした。チョコが濃厚な香りを放ち、その香りはけだるい体に沁みるようだ。このチョコに妙な細工がしてあるかどうか。そんなことはよく考えてみれば分かることだ。 あるはずない。 だいたい女性がらみの問題ならその場で鉄拳を喰らっているのだ。 ジョウは体よく彼等にからかわれたのだ。追いかけて文句のひとつでも言ってやりたいところだが、今あの2人には何をしても勝ち目はなさそうだ。苦笑いするしかない。 ふとアルフィンの顔がジョウの頭の中を過ぎった。 大事なのはこっちのほうだ。 音沙汰がないのも気にかかる。 包みにチョコを戻し、ジョウは軽く体を伸ばすとリビングを出た。
ジョウはリビングからまっすぐアルフィンの部屋へ向かった。彼女の部屋はジョウのそれと同じ階層にあったが、いくつかの部屋を隔てたところに位置していた。
扉に付随するインターフォンを鳴らす。ピーッ。いつ聞いても愛想のない音だ。 「誰?」 沈んだ声。アルフィンの調子がいつもと違う。 「アルフィン、俺だ。入ってもいいか?」 いくらか間があいた。 「いいわよ。どうぞ」 シュンっと扉が開いた。その途端いつも通りのかすかな甘い香りが流れてくる。 ジョウが部屋に入るとアルフィンはベッドに浅く腰掛けて彼を待っていた。彼女が横になっていたのか、シーツがほんの少し乱れているように見える。ジョウは部屋の隅にある小さめの赤いソファに座ろうかと一瞬迷ったのだが、結局アルフィンの隣に腰を下ろした。 なぜか横に座る彼女は元気がない。うつむき加減だ。何時間か前のアルフィンの勢いはなんだったのだろうとジョウは思った。 ひとことふたこと何気ない会話を交わしてみる。ジョウは普段と同じ様子で振舞っているつもりだが、アルフィンはいつまで経っても本来の明るさを取り戻せないでいる。ジョウはそれが気になっていた。まさか、リビングでのやりとりを後悔してるんだろうか。これ以上場の空気が重くなると困ると思いなんとか話を本題に移そうと思ったとき、さすがにまずいと感じたアルフィンがジョウの機嫌を窺う様に口を開いた。 「ごめんね、ジョウ。もしかしてさっきのプレ・・」 ジョウはその言葉を慌てて遮った。 「アルフィンにもらったチョコレートを一緒に食べようと思って持って来たんだ」 驚いた顔のアルフィンがジョウをまっすぐに見つめる。 「ずいぶんからかわれたんだぜ、リッキー達に。突然のプレゼントだったから。何の意味があるんだろうって。ものすごいこっぴどく」 にっとジョウは笑った。 「そ、そんなこと言ってたの?」 「そう、言ってたんだ」 笑いながらオウム返しに言う。 ジョウの目が柔らかさを増した。その瞳にアルフィンは体が熱くなるのを感じた。ジョウになんてひどいことをしたんだろう。いまさらながらひどい自己嫌悪の嵐が渦巻く。でも今ならきちんと謝ることができるかもしれない。アルフィンの瞳に光が宿った。そして勇気を出し事の顛末を告げることにした。 「あのね、そのチョコ意味があるの。ほんとに」 「まじで意味があるのか?!」 ジョウは本気で驚いた。 「だから、あたし舞い上がっちゃって、訳わかんなくなって。さっきジョウにひどいことしたの、ごめんなさい」 「?」 これにはジョウが怪訝な顔をした。アルフィンの顔もくしゃくしゃになる寸前だ。 「えっとね、古い昔の話なんだけど、今日はバレンタイン・デーっていう日なんだって。ニュースで言ってたの」 アルフィンは大きく息を吸い込んだ。その胸は緊張で張り裂けそうになっている。言葉が心で萎んでしまいそうだ。でもちゃんと伝えないといけない。でなければこの嫌悪感をぬぐう事はできない。もう一度深く息を吸い込んで続けた。 「バレンタインっていう・・・その日はね、女のひとから思いを込めたチョコを、その人にとって大切な人に渡すんだって。だから、あたしジョウに」 そこまで言うとアルフィンの全身はまるでピンクの薔薇のように染まった。もうまともにジョウを見ることはできそうもない。この場から走り去ってしまいたい衝動にかられる。 バレンタイン・デー?チョコ? ジョウはアルフィンの言葉を頭に刻み込むようにひとことひとこと繰り返していた、何度も何度も。
「あ〜っははははは・・・、そっか」 ややあって不自然な笑いがジョウから漏れた。動きもまた不自然になった。落ち着かない素振りであたふたと体を動かす。そしてギクシャクした操り人形のような手つきで包みからチョコを取り出そうとする。がさがさと無粋な音が部屋に響いた。 ようやくチョコが姿を見せた時、ジョウが神妙は面持ちで言った。 「全部俺が食べるからな、アルフィン。絶対」 黒い艶のある小さなチョコをひとつ口に入れて噛みしめる。ジョウの口一杯に苦味のきいた甘さが広がっていく。 「あ」とアルフィンが声をあげた。 「うまい」 アルフィンに聞き取れないほどのつぶやきだった。 ジョウは時間をかけてひとつひとつ口に運んだ。まるで大事な物を無くさないように慈しむように。その間アルフィンは泣き出しそうな表情でそれを見つめていた。残りひとつになったところでジョウの手が止まった。 「こっち向いて、アルフィン」 アルフィンが不思議に思いながら顔を向けると、ジョウは最後のチョコを彼女の目の前にすっとかざした。それからゆっくりと形のいいアルフィンの唇にそっとを押し当てた。次に自分の唇に同じように押し当てる。アルフィンの瞳が大きく見開かれた。 「これも俺が食べてもいいか?」 照れ隠しなのかぶっきらぼうな口調でジョウが言った。アルフィンは慌てて首を縦に振った。その様子に安堵してジョウが最後のひとつを口に放り込んだ。
「うまかった。サンキュ」 チョコが溶けてしまうとジョウが微笑んだ。まだ照れくさそうな顔をしている。 アルフィンはどうかすると自分の大きな瞳から流れ出そうなものを堪えて微笑み返した。 「どういたしまして。おまじないが効いておいしかったでしょ?」
ジョウとアルフィンは顔を見合わせてちいさく笑った。とても幸せな瞬間だった。
チョコの中身は下剤でもすごいものでも、もちろん惚れ薬でもなかった。
チョコに入っているのはアルフィンの小さなおまじない。 彼女は願った。 ジョウが自分に振り返ってくれることを、好きだと言ってくれることを。 そしてひとつひとつのチョコにキスをした。 それがまだ触れたことのないジョウの唇にかわる瞬間を夢見て。
〜いつか、いつかきっとね、ジョウ
その願いはほんの少しずつ前へ歩き出した。
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