| 目の前にあいつのいる部屋の扉が見え、ふとその場で歩みを止めた。僅かに開いていた扉から零れ出るあたたかな空気を感じて、まるで、あいつが早く来てくれと言っているようだと思った。俺はそんな空気に誘われるまま、どこかくすぐったいような気分でその扉をゆっくりと押し開く。
−−−が、その時。 「………ああ!」 突然、アルフィンが大声を上げて俺の腕を引っ張るようにして引き止めた。 部屋の扉を引っ張るように開けていた俺は、突然後ろから加わった力によって仰け反りそうになり、必死に足を踏ん張って体勢を取り戻す。思わず咳き込みそうになって、俺は噛み付くような声でアルフィンを振り返った。 「…なんだ!一体」 「…いっけなーい…。授乳の時にはガーゼを持ってくるようにってナースに言われてたのに、うっかり忘れてきちゃった…」 口に手を当てて途方に暮れた顔をしたアルフィンが、俺を見上げている。 「………。そんなの、中で借りればいいだろ」 「ダメよ。ちゃんと持ってきてくださいねって今朝きつく言われてたんだもの。ジョウが予想外に早く帰ってきてくれたりしたもんだから、すっかり嬉しくなって忘れてた」 「…そんな写真を喜んで持ってきたりするからだ」 呆れと疲れが入り混じった声でぼやく俺に、アルフィンは肩を竦めて舌を出したが、俺の都合など全く気にする様子もなくこう言った。 「あーあ。…しょうがない。ジョウ、悪いけどこれ持ってて。あたし今から取ってくる」 手にしていたフォトフレームを無理やり俺の腕に押し込めて、アルフィンはスタスタと踵を返し、自分の部屋に戻ろうとする。 「…はあ?!おいちょっと!戻るんだったらこれも持ってけ。こんなもん飾るなって言ってんだろ」 「だーめ!今日はそれを飾るの!いいからつべこべ言わず、とっとと持ってって頂戴!すぐに来るから!先に行ってて!いいわね?分かった?」 母親のような口調で畳み掛けるようにそういい残すと、アルフィンは昨日出産したばかりとは思えない程の速さで、目の前の廊下を駆け戻っていく。その余りの勢いの凄まじさに俺は唖然としながら「…なんなんだ、一体」と口の中で呟き、暫くその場に立ち尽くしていた。
ふと我に返ると周りを歩いている人々の視線を一身に浴びていることに気が付いた。皆、どこかやんわりと細めた目で、静かに笑いながらこちらを見ている。 俺は照れくささを隠すように、コホンと一つ咳払いをしてから踵を返し、出来るだけ何気ない振りでその部屋の前に歩み出す。部屋の前で既に少しだけ開いていた扉を押し開き、息を詰めるような思いで広い部屋の中を覗き込んだ。 春の陽射しに照らされたその部屋にはキラキラと光の粒が舞い、眩しいくらいに輝いていた。この扉の向こう−−−大きなガラス窓に遮られているが、この扉の向こうであいつは静かに眠っている。 俺はあいつが眠っている場所に足を進めようと右足を一歩踏み出そうとしたが、今が授乳の時間ということは、もしかしてアルフィンの他にも同じ目的で集まっている女性がいるのではということに思い当たり、ふと足を止めた。 一瞬、このままここに留まるべきかどうかを逡巡する。 一旦部屋の外に出てアルフィンが戻るのを待つべきかとも思ったが、先程すぐに戻ると言っていたアルフィンを無視することも憚られ、とりあえずは部屋の中を確認してから判断をつけることにした。あまりにも居た堪れない状況であれば、廊下に出てアルフィンを待てばいい。そう思い、慎重に少しずつ顔を覗かせるようにして廊下を進み、あいつが眠っている部屋が見渡せる窓を窺った。 そこには生まれたばかりの小さな命が眠っている窓の明かりが、廊下に柔らかく零れている。ガラス窓の中から授乳を待つ女性達の声が聞こえるのではと冷や冷やしたが、そこからは物音一つ聞こえてはこない。−−−あまりの静寂が逆に不気味だった。 俺はゆっくりとあいつが見えるガラス窓に続く廊下を歩き、その角を曲がる。 そして、顔を覗き込ませるようにして中を窺い、そして−−−。 −−−そのままこの場所に立ち尽くす羽目になった。
…そこには。 ただ一人だけの佇む人影が見えた。 その男はダークグレーのスーツで身を包み、やや銀色がかった髪の、以前見た時よりも一層深くなった皺が刻まれた顔で、じっと窓の中を眺めている。 遠い昔。 アラミスの夕暮れの中で、七色の橋が架かった空の下で、狭い会議室の行き詰るような空気の中で、その静かな瞳をじっと俺に投げかけてきた男。強く、厳しく、常に冷静で、言葉を飾ることはせず、ただ真実だけをひたすらに俺に投げ落としてきた男。 −−−その人は。 病で一度死に掛けたとは思えない程に、ピンと伸ばされた背筋でそこに立ち、ガラス窓の内側で眠り続ける俺の息子を静かに見守っていた。
(………、親父) 俺は声もなくその光景を見つめる。 父はガラス窓の中に眠る俺の息子を見つめたまま微動だにしない。片方の手にはあのアタッシュケースを持ち、もう片方の手をジャケットのポケットの縁に引っ掛けるようにして立っていた。
昔、こういう父の姿をよく見ていたような気がする。 こちらを厳しい顔で見据え、憤りに震える俺に向かって、平気な顔で容赦のない言葉を浴びせてきた。仕事でミスをした時も、資格更新で等級が上がった時でさえも、それではまだ足りないのだと言いたげな口調で俺を叱咤した父。 目の前の父は、その時と全く同じ格好でそこに立っている。 …だが。 一つだけ違っているのは、そのまなざし。 そのまなざしの優しさに俺の足は止まったまま動かなかった。 父を知らぬ人間であれば、決して気付かないほどの淡い笑み。 その穏やかで静かであたたかい笑みはまるで自分の思い出を辿っているかのようで、俺はそんな父を見ながらずっと昔に忘れてしまった記憶を思い出して、ただそこに佇んでいた。
ふと思い当たって、入ってきた扉の向こうに視線を流してみる。 そういえば授乳の時間だと言っていたはずなのに、そうとわかるような女性の姿はいつまでたっても一向に現れる様子がない。案の定、まるで隠れるようにしゃがみ込みながらこちらの様子を窺っていたアルフィンの姿まで見つけ、俺はようやく彼女の意図したものが何であったのかを理解した。 振り返った俺と目が合った途端、アルフィンはすぐさまその頭を扉の向こうに引っ込めたが、しばらくすると恐る恐るという様子で顔を出す。 (…あんにゃろう…) 眉根を寄せてそちらを見下ろす俺に、やはり余計なことをしたのかと、うろうろ彷徨う視線でアルフィンはこちらを見返している。 どうしよう、と心もとない上目遣いでいるアルフィンを俺はじっと黙ったまま見つめた。
俺は暫くの間、片目を細めながらアルフィンを見下ろしていたが、やがて押し付けられたフォトフレームを目の前に翳しながら「…今日だけだぞ」と呟いてみせた。そして「後で覚えてろ」と言い、小さく中指を立てておどけてみせると、ようやくアルフィンはホッとした様子でゆっくりとその場に立ち上がった。 そして、気を取り直したと思うが早いか、「行け行け」と手を振りながら訳の分からないエールまで送ってきて、わざと顔を顰めていた俺を笑わせた。
まったく−−−。 「…おせっかいめ」 抑えようとしても零れてしまう笑いがなんだか面映い。 そんな自分が自分で可笑しくてたまらなかった。 この思いをなんと伝えたらいいのだろう−−−君に。
そして、俺はあたたかい思いに身を浸しながら、大きく息を吐き出しては父を見た。 ずっと何をきっかけにして話をすればいいのかと、なかなか始めの一歩を踏み出せなかった父との関係。ずっと同じものを見たかったのに、ずっと心の中に溜め込んでいたことをぶちまけたかったのに、ずっと共に笑ってみたかったのに、その為にはどうすればいいのか何を話せばいいのか分からず、ずっと同じところで立ち止まるしかなかった日々。 だが。 (もう、言葉など必要ない) 俺は心の底からそう思う。 今このガラスの向こう、すやすやと眠る小さな命の前で、二人が同じように立っているという事実だけで充分だ。 昨晩、アルフィンを励ましながら父が語っていた言葉。それが多分、−−−紛れもない父の真実。 親にできることは子供が掴み取るものを見守ることだけという父の言葉が、俺の心に静かに落ちる。
今、あの部屋で静かに眠っているあいつの人生は、俺の人生でもなくアルフィンの人生でもない、この世でただ一つのあいつだけの人生だ。もし俺がこの先、あいつの遭遇する様々な難関をひとつひとつ片付けてやったとしても、それはあいつの生きる糧とはなりはしない。あいつの生きる道はあいつが考え、あいつが選び、あいつが自分の力で掴み取らなければならない。 もし、あいつがクラッシャーになりたいと言い出したとしたら、きっと俺も父と同じことをするに違いないのだ。 俺はぼんやりとそう思いながら、父に向かって足を踏み出す。
春の風が俺の髪を揺らし、父の髪も揺らしては部屋の中で静かに舞った。
「−−−親父」 そうして俺は声をかける。
あの日、−−−あのアラミスの空に架かった虹を見た日、握り返されることのなかった手を差し出して。
今度は、自分から父の掌を強く握り返す−−−ただそれだけのために。
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