| 「鼻の下が汚れてるわ」 そう指摘してから、指でその汚れを拭ってあげた。 「い、いいよ、自分でやるよ」 慌てたように彼は言い、服の内側からハンカチを取り出し汚れをゴシゴシと拭き取る。 私は彼のような若い男の子がハンカチなんかを持っていることに驚き、ついクスリと笑ってしまう。 あのチームメイトの女の子が持たせてやっているのかしらと、微笑ましい気分になる。
「親父に、似ちまったんだろうな」 部品の回収を諦め、一休みしていた際に彼は私の「若いのに、どうしてこんな仕事を?」という、面倒な質であれば『差別的発言だ』と文句を言われそうな質問にポツリと答えてくれた。 私の不用意な発言をねじ曲げたりせず、気遣う気持ちを素直に受け止めてくれて、率直な心情を吐露してくれたのだ。 続く言葉の端々から、父親に対する複雑な心情が浮かび上がっている。 偉大なる父。 素直に尊敬する気持ちと、それに反発する覇気。 若さ故の、真っ直ぐで熱い想い――。
ふと、泣きたいような想いに囚われて胸がぎゅるりと痛む。 あの子が、もし私の弟が生きていたならば、やはりジョウのように父に反発したのかしらーー?
弟が亡くなったのはもう十年以上前のこと。 いつものように元気に遊びに行ったその帰り道、日暮れ時の視界の悪い魔の時に車に跳ねられ、あの世へ突然旅立ってしまった幼い弟。
母は身も世も無く嘆き、自分を責めた。 決してお前のせいではないと慰める父の言葉尻を捉え、憤激して悲しみの矛先を父に向けた。 少女だった私は、ただ自室に籠って泣くしかなかった。 自らの悲しみを脇に置き、子供の私が慰めようとしても母の心には届かず、翻って責められもした。あの子の無念をお前は感じないのか。そんなにも薄情な娘だったのかと。
父が離婚を決意したのは、全くもって当然の結論だと、当時少女だった私でさえ納得出来る選択であった。 このまま一緒にいたらお互い傷付くだけだ。その判断は正しい。あの頃の私達家族は、地雷で埋め尽くされた荒野を、めくら滅法に歩いているような状況だったのだから。 「一緒に行こう」という、父の誘いを断ったのは私の最後の良心だった。 こんな状態の母を一人にする訳には行かない。とことん自分を傷付け、闇の迷路に堕ちて行ってしまうであろうことは、自明の理だったから。 そんなことになったら、死んだ弟がきっと哀しむ。 あの大きな瞳を歪ませ、私に強く訴えるようなあの子の顔が脳裏から消えなくて、私は母と共に生きる決意をしたのだ―ー。
「そんなことないわ。お父様もきっと心配してらっしゃるわ」 私の言葉に、ジョウは強く反発した。 聞き分けの悪い男の子。 若い男って、こういうものなのかしら? あの子が生きていたら、やはり大きな存在である父に、こんな風に歯向かったのかしら――?
大好きな癖に。 その大きな背中に憧れて同じ道を歩んでいる癖にそれを素直に認められない、出口を求めて荒れ狂うマグマのような覇気と、競争馬のように遮断された視野の狭さに翻弄される時期――。
ああ、不思議な気分だわ。 顔も性格も全く似てはいないのに、なぜだか私は今目の前にいるこの男の子が、あの子の化身のような気がしてならないわ。 今日の続きである明日が必ず来ることを、欠片も疑っていないまっすぐな強い瞳が、そんな錯覚を起こさせるのかしら…?
あなたが眩しいわ、ジョウ。 こうやって隣に座っているだけで、目に見えない熱い何かが伝わって来るようよ。
だから私も、弱さを閉じ込めていられるかも知れない。 迫り来る大いなる恐怖から逃げ出さず、自分の責任を全うするべくきちんと踏み出せるような気がしているの。
…あなたなんでしょ? あなたがジョウの姿を借りて、私に勇気を与えてくれているんでしょ…?
大丈夫。私はきっと、やり遂げる。 お母様の哀しみと、お父様の無念と、そしてあなたからの励ましがきっと私を正しい場所に導いてくれると信じてる。
だから、もう少しだけ側にいて。 私の勇気が挫けてしまわぬように、この健やかな青年の姿で、弱い私の心に、どうか力を与えて――。
すくまずに、踏み出す力を――。
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