| 「わあ、本当だわ」 「あ。おい」
客室のドアをジョウが開けるやいなや、サンドレス姿のアルフィンがするりと横を抜けた。 短い通路の先はリビング。日中であれば窓辺よりマウンテンビューを望める。 夜の帳に被われた今は、その迫力も魅力も半減していた。しかし彼女ははしゃぐ。目的はどうも、 空、にあるらしい。
「聞き耳立てて、正解」
六枚窓のワイドな造り。へばりつくようにアルフィンは立っていた。遅れてリビングに戻ったジョウへ、 振り返り様そう言った。 彼女の客室は向かい側だ。フロントでオーシャンビューを推され、即乗った。男三人が入れる部屋は、 同階だとここしかなかった。
「やだあ、仕事?」 「クライアントからの問い合わせ。さっき済んだ」
ウッド調のテーブルに置かれた端末を、彼は閉じた。 その流れで傍らにあったコーヒーカップを取り、一口含む。
「ジョウも来て」 「うん?」
1枚の窓をアルフィンがスライドさせる。ひらりとバルコニーに出た。軽く両手を広げて深呼吸。
「胸の奥まですうっとする。緑の香り。少し、濃いかしら?」 「森と言うより樹海だしな」 「麓までずっとね」 「うん? やけに見通しいい。…光度が高いのか?」
バルコニーに一歩踏み入れ、そのままひょいと扇ぐ。
「プリンセス・ムーンですって、今夜」
なんだって? と眉をひそめた。 あれはどう見てもスーパームーン。時期、そしてテラとの距離からして間違いない。 闇にぽっかり浮かぶ、風穴のような月。吸い込まれそうな美しさではあるが、ジョウの知る限り スーパームーンである。メルヘンな名称ではない。
「ネイルの間、お隣の会話が聞こえちゃったの」 「客は暇だもんな」 「んもう! 有意義な時間ですっ」 「へいへい」
緩慢な動きで彼はバルコニーに立った。彼女は柵に手を掛け、顎を少し上げた角度で月に見入る。 1人分空けて、その右隣に並んだ。
「テラには昔、月夜を眺めて涙する姫君がいたんですって」 「…ほお」 「物語のラスト、故郷の月に帰っちゃうんだけど」 「……」 「その話を元に、輝きが増す月のことをプリンセス・ムーンと呼ぶようになったそうよ。ぴったりよね。 スーパーをつけりゃいいってもんじゃないわ」 「……、……」
相槌に窮し、ジョウは右手で後頭部を掻く。
「あたしの部屋だと見えなくて。今日着いて、さっき知って、今見られて…良かったあ。明日だと見え方、 普通でしょ?」 「まあな」 「うふふ。ツイてる」
柵から手を離し、軽い足取りで後退する。バルコニーの窓際には、シェル型の籐椅子が置かれていた。 紺のギンガムチェックの裾を、ふうわり空気で膨らませて着座した。 吐息をつき、バックレストに身を預ける。肘掛けに左右の腕を乗せて、また夜空を見上げた。
「ねえ、ジョウ」
声色がしっとり響く。返事の代わりに、身体を反転させた。バルコニーの柵に背で寄りかかる。
「月を見るとき、なに考えてる?」 「え?」 「あたし以前は、綺麗ねえ、それだけだったの」 「──? いいだろそれで」 「ジョウも? 嘘?」 「なんだその切り返し」 「ううん。ただちょっと、意外だなあって」
まん丸に見開いた碧眼を向けられて、気まずくなった。ジョウは人差し指で、鼻の下をすっと引く。
「──図星」 「え?」 「月光越しに雲の流れを見て、ああ、明日は晴れだなとか」 「やっぱり」
ぷっ、とアルフィンが吹いた。ジョウもくっとつられた。
「マルスと比べるのも興味深い」 「そうね。あっちの衛星は二つで、動きも異なるし」 「月が明るすぎると、星は全く駄目だしな」 「とことん実用的ねえ」 「実用?」 「ぜんぜんロマンチックじゃない」 「俺にそれを求めるな」
唇をへの字に結び、ジョウはひょいと肩をそびやかす。
「わかった。それじゃあ…」 「?」 「喉、渇いた」
アルフィンはそれ以上語らなかった。小首を傾げて金髪をさらりと揺らすだけ。お願い。 仕草から要望が伝わる。
「アルコールは出さんぞ」
大股でバルコニーを横切り、リビングに戻った。けち。アルフィンは念を送ったが遅い。例え届いても、 シャットアウトは見えていたが。
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