FAN FICTION
(現在 書庫2 を表示中)

HOME HELP 新規作成 新着小説 トピック表示 検索 書庫

[ 最新小説及び続き投稿フォームをトピックトップへ ]

■488 / inTopicNo.1)  タイムスリップ
  
□投稿者/ まぁじ -(2003/08/30(Sat) 12:32:42)

     気の利いたBGMもない、古びたカウンターバー。年老いた店主がグラスを磨く音が、やけにでかく響く。そのせいで、窓一つ無い店でも外の様子が分かる。
     ……雨か。
     まるで俺たちの逢瀬を阻むような、冷たい雨音が入り口のドアをざわりと撫でた。
     来ないかもしれないな。
     俺はその言葉と一緒に、ウイスキーのストレートを喉に流し込んだ。
    「こんな店を、待ち合わせにしたのが運のつきじゃ。ジョウ」
     グラスを磨く手を休めずに老店主、ヨゼフ爺さんは言った。8年ぶりにこの店にふらりと俺は現れ、顔なじみの店主と挨拶もろくに交わさず酒を注文した。
     来た理由など、一言も話しちゃいない。
     でもばれていた。この年寄りは昔からこうだ。人を一瞥しただけで、胸の内を見透かす。
    「……ほかに、適当なところがなかったのさ」
     カウンターのコーナーに、唯一インテリアとして置かれたランプに視線を移し、俺は素っ気なく応えた。
     そもそもこの店は、タロスの隠れ家のひとつだ。クルーが二十歳を迎えた時あいつなりのご褒美とかいうやつで、連れてこられる習慣がいつの間にかできていた。
     年代物の酒がある訳じゃない。出される食い物が特に旨い訳でもない。ヨゼフ爺さんの人柄なんてのも、俺はよく分かってない。ただ、最初に来た客だけを、その日の客として扱う。席がひとつしか埋まらずとも、ヨゼフ爺さんは二番目の客を入れない。
     だから一人で飲りたい時、気心知った連中と酌み交わしたい時。
     一切の雑音がない店は具合が良かった。
    「待ち人は男じゃなかろう?」
    「さあ、どうかな」
    「はぐらかしても無理よの。瞳がそう白状しとる」
    「……ふん」
     ヨゼフ爺さんはいましがた磨いたばかりのグラスを、カウンターに置き、酒棚から無造作にボトルを抜いた。そして自分のための一杯を注ぐ。
    「諦めを知った顔をするようになりおって。……もう30くらいか」
    「なんにも変わらず、そんな年になっちまった」
    「変わらん男は、そういう顔をせん」
    「いや」
     ダークサーモン色のシャツ、その袖口のボタンを外し袖をまくる。もう窮屈な格好をする必要も、なくなったと思ったからだ。雨音がさっきより激しさを増す。こんな鬱陶しい夜に、面倒な男に逢いに来るとはな。
     あり得なさそうだ、どう考えても。
    「……変われなかったんだよ、俺は」
     黒ネクタイの結び目を引き、弛めると、俺はようやく息苦しさから少しだけ解放された気がした。
     ──何故。
     何故、この店に来るよう彼女に言ったのか。どう誘いかけたのか。動転のあまり俺は、昼の出来事をつぶさに思い出すことができない。ただ覚えているのは。
     薄れることのなかった記憶の中にいる彼女とは、ズレを感じる表情を突きつけられただけ。俺を見つめるとき、あの頃の彼女はいつも碧眼を輝かせていた。
     でも昼に偶然再会した彼女は、瞳の奥をほの暗くかげらせて、俺を見上げた。
     5年前。
     突然、何の前触れもなく、アルフィンは<ミネルバ>を降りた。いや、前触れを感じなかったのは、俺だけだったかもしれない。彼女のことだ。心の中で少しずつ準備が始まっていて、俺がそれに全く気づくことなく、審判の日が訪れたと考える方が自然だ。
     行方を捜そうにも、ピザンに直接問い合わせることはできなかった。元王女という身の上。簡単に公表はしないだろう。俺は別ルートで彼女の足跡を追った。低俗なネタを好むパパラッチの情報網。しかしそこでも、なんの収穫もなかった。
     どこへ消えたのか。
     理由も告げずに。
     そして俺は、ガンビーノの言葉を思い返していた。逢いたいと思うには宇宙は広すぎて、偶然逢うには狭いところだと。宇宙港の入国チェックがあと1分でも遅かったら。
     俺は、彼女に遭遇することはなかった。


引用投稿 削除キー/
■489 / inTopicNo.2)  Re[2]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/08/31(Sun) 11:06:07)

     この5年間、俺は人混みを歩くときにいつも、無意識のうちに、長い金髪を捜す癖がついていた。だが捜したところで、当人に出くわしたためしはない。
     今日は逆だった。
     俺はこの先の任務のことで頭がいっぱいで、ずっと続けていた習慣を怠った。
     手続きカウンターの前から歩いてくる彼女の姿。それが視界にすっと飛び込んできた。いつもそうだ。アルフィンは俺の都合などお構いなし。それとも神のいたずら、てやつか。
     金髪をまとめ上げ、仕立てのいいオフホワイトのスーツを着こなし、身体つきがより曲線を豊かにしていた。俺は、声を掛けるより先に足を踏み出し、アルフィンの行く手を遮った。
     間近で見た彼女は、愛くるしい時期をとうに過ぎ、もう一人前の女になっていた。
     その顔で、俺を仰ぎ見る。
     彼女は、5年ぶりに俺を見ても表情を大きく崩すことはなかった。一瞬だけ両目を見開き、お愛想ともとれる固い笑顔で「お元気?」と小さく訊いた。
     ひどく冷静だった。再会したというのに。こっちの寂しさが募るくらいに。
     上品に、頬に軽く添えた左手の薬指には、プラチナの冷たい輝きが放つ。俺の胸は呆気なくざわついた。おかげで、そこから先のやりとりはよく思い出せない。
     苦い再会。
     もしこの店で彼女と肩を並べたところで、自分自身を痛めつけるだけでしかないだろう。彼女の薬指がすでに予言している。アルフィンが俺の船を降りてから、つきまとう喪失感。今以上に大きくなるだけだとわかっているのに。
     それでも、もう一度彼女との接点が欲しかった。俺にとって無益でしかなくとも。
     彼女は来ない。
     頭では諦め、すっかり緩んだ格好でいるのに。俺の心は、まだすがりつくのをやめられない。考えることと、感じることがばらばらだ。
     なにせいま彼女は、同じ惑星の大地を踏み、同じ空気を吸っている。姿は見えずとも、俺たちは同じ時間を共有し、つながっている。そんなセンチメンタルなことを過ぎらせてしまう。
     アルフィンを失って以来、らしくない俺というもんが生まれていた。未練がましい。手を焼く女を失って、俺の両手はずっと所在なさげに彷徨っている感じだった。
     俺は、どうしたいんだろう。自分でも決着のつけ方がわからない。アルフィンにもう一度逢えば、答えが見えるというのか。来ないかもしれないのに? いや、もう来ないだろう。そう否定しながら、俺はカウンターから離れることがまだできない。
     グラスを傾けた。さして呑みたくもない酒を胃に流すことで、ここにいる理由を無理矢理つくる。
     そんな折りに。
     俺の肌が、エアカーの止まる気配を察した。
     握ったグラスの中で、ウイスキーが波打つ。手が無意識のうちに、小刻みに震えはじめたせいだ。
    「……わしの店も、まだつきがあるようじゃの」
     ヨゼフ爺さんはぽつりとこぼすと、俺とのやりとりをうち切った。カウンターについた肘を退け、他人のような顔をする。
     ぎい、とドアが重々しく開く音。
     視界の端に。
     宇宙港で見かけた姿のままのアルフィンが、ドアの隙間から滑り込んできた。8年前。彼女が二十歳になった時、俺とタロスとでここに訪れて以来だ。
     彼女は、この店を覚えていた。


引用投稿 削除キー/
■490 / inTopicNo.3)  Re[3]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/09/01(Mon) 11:31:46)

    「……勘違いしないで。あなたに用事があるんじゃないわ。忘れ物に興味が出ただけ」
    「忘れ物?」
    「言ったでしょ。自分で」
    「ああ、そうか」
     俺はようやく、彼女をどう誘いかけたかを思い出した。
     ヨゼフ爺さんは無言のまま、俺の隣にワイングラスを差し出した。お膳立てが揃うと、この老人はまるで置物のように存在感を消す。必要最小限のことだけを仕事として振る舞う。
    「彼女、酒は……」
     俺はグラスの口を、右手で覆うようにする。だがアルフィンの声が、払いのけた。
    「平気よ。一体いつの話し? 今の仕事でたしなむことを覚えたわ」
     固い口調だった。
    「……仕事?」
     結婚しているのに。
     俺はどうしても口にできない二文字の代わりに、目線で彼女の左手を指した。
    「そうよ。主人の仕事、手伝ってるの。つき合いとか色々多くて」
    「ならこの惑星に来たのは」
    「新事業を立ち上げるの。それで契約企業の視察」
    「なるほど、はまり役かもな」
     彼女は国王の娘として社交術に長けている。
     クラッシャーなんかより、らしい、と自然に思えたりもした。
    「何年になる、手伝って」
     いつ結婚したんだ。
     遠回しな言い方を俺は自然に選び、口にする。そしてグラスに赤ワインを注いでやった。
    「──3年」
     アルフィンはグラスを手にすると、見事な呑みっぷりで1杯目を空にする。かつてはそれだけで、頬を染めたりしたものだった。でもいま隣にいる彼女は、能面のように肌の白さを保っている。
    「……そうか。順調に軌道に乗ったってところか」
    「ええ」
     当然という横顔を、俺はそっと盗み見るだけだった。
     手を伸ばせば届くところに彼女はいるのに、逢わない時より遠く感じる。俺を慕ってきた昔のアルフィンの残像、俺の大切な思い出が、ひび割れていく。
     逢わなけりゃよかったという後悔と、壊れてくれた方が楽になれるというやけくそが、胸の奥底でからまりながら螺旋を描いていく。
     俺は落ち着かせるために、シャツの胸ポケットから煙草を出した。カウンターに置かれたマッチを手にすると、吸っていいかと聞くこともせずに、火を点けた。
    「……ノースモーキングの時代に煙草? あなたっていつもそう」
    「うん?」
    「ズレてるのよ、なんか」
     俺は彼女の反対側に顔を背けて、紫煙を吐いた。
    「大人になったら辞めるものでしょ」
    「遅いんだよ、俺は。やることなすこと」
    「……そうかもね」
     食わえ煙草のまま俺は、彼女のグラスにワインを満たした。
    「どうせいまも、仕事ばっかりにかまけてるのよね」
    「ご名答」
    「仕事さえできれば、困らないものね。男の人は」
    「だから愛想を尽かされる」
    「わかってるじゃない……」
     アルフィンは唇をきゅっと咬む。やっぱりな。密航してきた理由が俺だから、降りた理由も俺だろう。いちいち説明されるより、納得のいく表情で返された。
     俺は。
     女の目からすれば、女性からのアプローチにきちんと向き合うことができなかった、意気地なしの男だ。
     こっちの本心を明かせば、故郷を捨て、かつての地位を捨て、一途に追ってきてくれた姿に、好感を得ない野郎などいやしない。気持ちはすっかり彼女に向いていた。だが、どう扱っていいのかわからず、まあいつか、いつかと考えているうちに数年が過ぎた。
     そのうちアルフィンの方が俺に疲れたんだろう。その仮説はどうやら当たりみたいだった。
     もう少し女慣れしていれば、気後れしはじめた彼女に手を差し伸べられたかもしれない。でも、できなかった。あの頃の俺は。
     情けないくらいに、器用じゃなかった。


引用投稿 削除キー/
■491 / inTopicNo.4)  Re[4]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/09/02(Tue) 18:45:45)

    「……どんな奴?」
    「え?」
    「亭主」
     灰皿に灰を落としながら、俺は天気でも伺うように訊いた。
    「……やさしい人。心が手に取るようにわかるし、穏やかな人よ」
    「どこで知り合った?」
    「いいじゃない、そんなこと」
     アルフィンはグラスを傾けることで、語尾を濁した。亭主を褒めることは、恐らく俺をけなすことと同意なんだろう。いまさらもう、俺に非難をぶつけるのも面倒ってことか。
     言葉にしたくない。彼女の内心が、いまの俺には読みとれる。本当に、遅い。あの頃の俺にそれができていれば、俺は、いや俺たちは、また違った人生を歩んでいたかもしれない。
    「イヤね、こういうの」
    「なにが」
    「あたしの昔を知ってる人に、いまのあたしのことを話すのが」
    「幸せなんだろ」
    「ええ、幸せよ。とっても」
    「なら、いいじゃないか。俺は覚悟してたぜ。おのろけってやつを聞かされることもな」
    「しないわ、そんなこと」
     グラスについたルージュを、アルフィンは親指で拭う。些かも、だらしない一面を残さないように。俺に一切の気を許さないような素振り。
    「……期待してた訳じゃないけど」
    「うん?」
    「がっかりだわ。いまのあなた」
     酒棚を見つめながら、手痛い一言を放つ。そして決して俺を名前で呼ぼうとしない、意固地さ。俺の胸が痛みにうずく。けれどもそうされることを望んでもいた。
     無視されるより、罵られる方がましだ。
     だが彼女の苦言に適当な返事がみつからない。あの頃は悪かったなどと今更口にしたところで、彼女は納得しないだろうし、弁解したところで関係が戻るわけでもない。そもそも俺たちは、何もはじまらずに終わった間柄。
     どんな言葉を返しても、つじつまが合わない。だから俺からは答えなかった。
    「……でも」
     アルフィンは、ひとつ大きく呼吸する。
    「でも、幻滅して正解かも。思い出のあなたも、綺麗さっぱり忘れられそうよ」
     鈴を鳴らすような愛らしい声で、憎まれ口を叩く。そして、口元だけで笑う彼女。
     元来の勝ち気さに、より貫禄がついた感じだ。
    「……そういう意志がしっかりしてるところ、好きだったよ」
    「さらっと言ってくれるわね」
     向けられた、汚らしいものでも見るようなまなざし。いまの俺に口にされたところで、気分が悪いというだけの。
     煙たがられると知りつつ、こんな間抜けなタイミングでしか明かせない、俺の本音。
     飲み込むのも、もう面倒だから吐き出してやった。
    「愛してたよ、俺なりに」
    「馬鹿じゃない?」
    「おかしいか、俺がこう言うのって」
    「薄気味悪い。鳥肌がたっちゃう」
     昔の俺を知っている人間ならではの拒絶反応。
     そうだよな。好きだの愛だの、こそばゆくて決して口にすることはできなかった。一番言わなければいけない相手に対しても。
     どうやって、誰に対して、いつから。渋っていた唇がこうも滑らかに訓練されたのか。
     もう彼女にはお見通しなんだろう。
     だからこその嫌悪も混ざっていると俺は察した。
     もういい年だ。別にばれたところで、後ろ暗いことはない。一晩限りの、行きずりの女たちが相手。傷を舐め合うだけの、本能のままに、何も残さず、ただ毛布の代わりに温もりを求めるだけで。顔も名前もろくに覚えていない柔肌を、俺はアルフィンを失ってから渡り歩いてきた。
     突然、頭の何処かがぶち切れたようにして。
     好きだの愛だの女にとって特別な言葉は、俺には身体を合わせながら、弾む呼吸の合間をつむぐものでしかなかった。心にもない言葉でも、媚びを売って生き延びている女たちはむせび泣く。疑似と割り切ったつかの間の関係でも、俺との時間に酔い、墜ちていく。
     そんな場面で、使い慣らすことを覚えた俺。
     だから。
     真っ当に生きて、他の男と恋愛し、夫婦として永遠を誓った彼女には効力がないんだろう。いや、そもそも。俺の言葉が汚れたせいだ。間違った使い方をしていると気づいている。けれどもそれを悔い改めてくれる機会も、そして当然ながら相手もなく。
     今日まできた。
    「……そろそろ出してくれない? 忘れ物っていうの」
    「せっかちだな」
    「忙しいのよ、あたし」
    「なのにわざわざご足労とは」
     俺はフィルターまで燃やした煙草を、灰皿でねじ消す。
    「たぶん、お互いにとっての忘れ物なんでしょ」
    「察しがいい」
    「……言って」
     カウンターに乗せた両手を、アルフィンは軽く組んだ。巻き上げた金髪、露わになった小ぶりの耳。それでしっかりと受け止めるためか、背筋をぴんと伸ばした姿勢で横顔を向けた。
    「ああ」
     俺は一旦、ウイスキーで喉をうるおす。
     アルコールで消毒するように。彼女の鼓膜に、失礼がないように。
     軽く舌先で唇も湿らせてから、口にした。
    「──さよなら」
    「…………」
    「ずっと幸せでいろよ」
    「……あなたも」
     碧眼に俺を映すことなく、彼女は端的に歯切れ良く、応えた。
     俺にも幸せか。
     どうにも、皮肉にしか聞き取れない言葉だ。


引用投稿 削除キー/
■492 / inTopicNo.5)  Re[5]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/09/03(Wed) 11:52:49)

     アルフィンを店で待つこと1時間。共有した時間はものの20分。
     本当はこのまま、ヨゼフ爺さんの店で飲み明かしても良かった。だが断られた。表通りに出ないと、エアタクシーが掴まらない辺鄙な場所。「最近、この辺りも物騒でな」の一言で、彼女を送れといわんばかりに追い出された。
     ひとしきり降った雨は、星のかわりに夜空を舞い散る霧雨に変わっていた。
     彼女は店の前までタクシーで来たせいで、傘を持っていなかった。俺もはなから、面倒なものを持ち歩くのは好まない。ジャケットかコートか。俺が着ていれば、彼女へ傘がわりに渡せただろうが。
     どのみち。
     俺の持ち物など、彼女は触れたくもないだろう。
     人一人分の間隔を空けて、俺たちは並んで歩いた。濡れた石畳。ハイヒールの踵が歩きづらそうで、彼女の歩調はゆっくりとしたものだった。スラックスのポケットに両手をつっこみ、俺も無言のままペースを合わせる。

     さっき告げた、別れの言葉。
     この一言を交わしあうためにか、天から降ってきた再会。
     不思議なほど、俺の心は凪いでいた。冷静、とも違う。これで彼女を吹っ切れるとか、互いにけじめをつけたとか、そういった感覚がまるでなかった。
     実感がわかない、という方が近い。
     隣にいる彼女。手を伸ばせば届くところにいるのに、スクリーンの向こうの別世界を歩いているようだ。
     ただ形式上、俺たちはこれで完全に切れた。
     それだけは確かだ。
     女からは罵りが、男からはつまらん言い訳が。感情のなすがまま、相手に気持ちをぶつけることも、俺たちはしなかった。それができるのは、若さや情熱があってこそなんだと気づく。ひとつの想いの決着に、もうそこまで熱くなれない。
     正直、俺にとっては生ぬるく、これで彼女をすっぱり忘れられるかといえば、あやふやだ。
     けれども、これで。
     俺たちの間には、一生超えられない一線が引かれた。まだ実感のない俺の想いなど、放っておけば、そのうちどこか適当なところに落ち着く。それまで、見て見ぬ振りしてやり過ごせばいい。
     こういう締まりの悪いジ・エンドも、世の中にはごまんとある。
     アルフィンは。
     結局一度も、俺に笑いかけてくれなかった。頑固なまでの、徹底ぶり。姿はすっかり大人の女になっても、垣間見える彼女らしさ。険しさをまじらせた碧眼、そしてへの字に結ばれた口元。不機嫌そのもの、といった表情。
     ふくれっ面だというのに、どうにも可愛く見えた過去を思い出す。
     すべてを吹っ切ったすがすがしい笑顔よりも身近で、生々しく、そして懐かしくもあった。俺の記憶の最終ページに、こんな無愛想な彼女が飾られることを、アルフィン自身がどう思うか分からないが。まあ、でも。俺がどう彼女の思い出を処理しようとも、彼女には関係ないことだ。

     俺は、意味もなく天を仰いだ。
     霧雨が渇いた瞳を、おもてを、湿らせていく。
     やはり、再会したことで何かが変わったわけじゃなかった。わかったことは。俺は、もう完全に心の一部が死んでいるということだった。だから実感を持てない。
     ゆっくりと視線を戻した。
     目の前につづく、まっすぐな石畳。あの先、大通りに突き当たれば、彼女との本当の別れに辿り着く。それをぼんやりと眺めていた。
     すると前方からヘッドライトがこちらを向いた。
     エアカーか。
     俺は通りの右へ、彼女は左へ、つま先を無意識に向けた。が、ふと違和感を感じた。ヘッドライトの動きがおぼつかないことに気づく。
     ──飲酒運転。
     俺の身体が……勝手に動いた。

     あわや引かれる寸前で、俺は通りを横切った。そしてアルフィンの両肩をつかみ、道端へ押しやる。彼女は小さな悲鳴を上げた。
     俺の背後ギリギリで、蛇行気味のエアカーのボディが通過する。水しぶきが舞った。水捌けがいいはずの石畳だが、運悪く、窪んだ箇所をホバーがえぐったらしい。俺の身体が間髪、彼女を汚れた雨水から遮断する。
     冷たい感触が、背中にじっとりとはりついた。
    「…………」
     無言のまま、俺は彼女を見下ろした。俺の両手が、彼女の肩に置かれている。
     てのひらが、ほんのりと温かい。
     はっとした様子で、彼女も顔を上げた。昔からずっと、俺を惑わせた碧眼がすぐそこにある。
    「──ちょっと……」
     険を含んだ口調で突き返す。
    「離して」
    「……アルフィン」
     掴んだ指先に力がこもっていく。俺はどうにも止められなくなった。
     アルフィン。
     彼女を目の前にして、彼女の名を呼ぶ。ひさしぶりの響き。喉の奥が震えるのを、俺は感じた。あの頃、俺たちが共に生活していた頃、当たり前のように口にしていた愛しい名。そして、どこからともなく、必ずといっていいほど、彼女の弾んだ返事が返ってきた日々。
     あれは、幸せだった日々。
     すると急に。
     俺の中で何かが、堰を切ったように溢れ出した。
     彼女を今日ここに、呼び寄せた理由。
     俺たちのけじめをつけるため。気持ちの整理をするため。もしくは、俺たちの関係を再度確かめるため。言えなかった言葉を、伝えるため。
     ──ちがう。そうじゃない。
     もっと単純なこと。感情的なことだ。
     俺は、嫌だった。
     赤の他人の、よりによって男のもとへ、やすやすと彼女を帰すことが。おかえり、と彼女を抱擁する男がいる事実に、俺はどうにも我慢ならなかった。
     人妻だろうが、なんだろうが。
     アルフィンがアルフィンという事実は、俺にとって変りはしない。


引用投稿 削除キー/
■493 / inTopicNo.6)  Re[6]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/09/04(Thu) 12:25:42)

    「……アルフィン」
    「…………」
     名前を呟くごとに、身体の奥底から息を吹きかえす感じがする。彼女の名は、まるで魔法にかけられた俺を、解き放つ呪文だった。
     異変を察したのか。アルフィンは唇を咬み、俺から目線を外して伏し目がちになる。
    「こっち向けよ」
    「……いや」
    「もう一度ちゃんと、腹を割って話したい」
    「なによ、今さら」
     身を軽くよじり、アルフィンはあらがった。咄嗟に、掴んだ両肩にいっそうの力を込める。ここで逃がしたら二度と、彼女を捕まえられないと本能的に思う。
     逃げる目線を追い、俺はかるく屈み込んで彼女に懇願した。
    「船を降りた、本当の理由は何だ」
    「忘れたわ、そんなこと」
    「嘘だ」
    「もう昔のことよ」
     アルフィンの手が、俺の胸を力強く押し返す。急に彼女は、気性の荒い猫のようにもがきはじめた。それを俺は許さなかった。
     彼女の華奢な肢体を、力で引きよせ、抱き込む。「あ」という短い抵抗とともに。俺が本気をだせば、アルフィンなど、女の非力な抵抗など、空を掻くのとかわらない。
     そして彼女はすっぽりと、俺の腕の中におさまった。捕まえた、身体だけは。
     心はまだ、背こうとしているのがわかる。だがとりあえず、これで、逃がすことはない。
    「そいつと……、亭主と一緒になる前に一度も、俺のことは思い出さなかったのか」
    「……知らない」
    「どうして濁す。吹っ切れてんなら、はっきり言えるだろ」
    「あたしは、夫がいる身。それが一番の答えでしょ」
    「そういう結果論じゃない。本心が知りたいんだ、俺は」
     全身でそう伝えたくて、いっそう強く彼女を抱きしめる。アルフィンは息苦しげに「やめて」と声をあげた。
     無理強いをしているせいか、俺たちの抱擁は不格好なもんだった。
     でも緩めるわけにはいかない。
    「……滅茶苦茶よ」
    「確かに、どうかしてる」
    「ちゃんと、さよならしたじゃない」
    「綺麗事がなんだってんだ。くそったれ」
    「───!」
     びくり、とアルフィンの身体が跳ねた。
     俺を怖がってるかもしれない。すっかり上品な世界に舞い戻ってしまった彼女にしてみれば、俺の態度はたしかに、がさつなだけだ。
     でも恰好つけが、体裁が、大人の常識がなんだ。それすらもう面倒くさくなっていた。
    「そうさ、終わってないんだ、俺は。頭ではきみの気持ちは理解したくても、感情がどうしても許せない。納得できない。いっそ、そうだな……今ここでこんなもの」
     俺の胸の辺りに、折り畳むように挟まった彼女の腕。俺は、右手を差し込み、抜き出す。目の前に、プラチナの輝きをかざした。
    「こんなもん、捨てちまいたいくらいだよ」
    「あっ」
     俺は彼女の薬指に、ぴたりとはめられたプラチナのリングを、口で、歯で、外そうとした。
    「だめ」
     細い手首を握り締め、力で押さえる。アルフィンは抵抗する。迂闊に食いちぎってしまいそうで、俺はうまく薬指にだけ狙いを定められない。
     結局、彼女の手の甲に唇が触れただけだ。
    「……笑えよ」
    「…………」
    「もっと呆れただろ。30にもなって、こんな駄々っ子みたいな俺で」
    「…………」
    「でも、今になって思う。昔の俺は利口を装った、ただの大馬鹿野郎だってな」
     再び、俺は両腕でしっかりとアルフィンを抱きしめた。とんだ、茶番劇だ。なにひとつ成長していない俺を暴露しただけに過ぎない。
     そんな風にしてしばらく。
     動けない時間がじりじりと過ぎた。

    「……どうして」
     先に、沈黙を破ったのはアルフィンだった。
     そして、か細い指たちが、俺のシャツ、その上腕辺りをまさぐる。たぐり寄せるように、くしゃりと鷲づかみにするのが視界の端に映った。
    「ひどいわよ、今さら。……あの頃どうして、そんな風に」
     語尾がわななく。
     彼女の肩先は、小動物のように震えてもいた。
    「──どうしてそんな風に、自分をぶつけてくれなかったの!」
     そう吐き出すと。
     彼女は全身を投げ出すように預けてきた。その重みがずしりと、俺の両腕にのしかかる。
    「……アルフィン」
     巻き上げた金髪が乱れるかもしれない。そうと知りつつ、俺は彼女のまとまった髪に頬をすり寄せた。こめかみのあたりに、口づけしたい衝動をかろうじて抑えながら。
     やっと俺たちは。
     向き合うことを互いに受け入れた。

    「あたしが<ミネルバ>にいた時、どんな思いであなたをずっと見てたか、わかる?」
    「……わかってたよ」
    「なのに、応えてくれなかった。……意気地なし」
    「否定しない。……あの頃、俺は怖かった、きみに溺れちまうことが。それにあんな危険な仕事、させることにも抵抗が生まれそうだった」
    「…………」
    「俺の一存で、仕事を奪うわけにもいかないだろ。だから、クルーとしての距離を保つことで、精一杯だった」
    「……やっぱり馬鹿ね」
     すん、とアルフィンのすすりが俺の耳朶を打つ。
    「あたしは、どんな危険な任務でも、簡単に死ぬつもりなかったわ」
    「……そう言うと思った」
     俺は思わず、彼女に再会して初めて、顔がほころんだ。
     こうして抱きしめて、互いの気持ちをさらけ出して、今ひしひしと思う。
     変わっていない。アルフィンはあの頃の、ひたむきで、まっすぐで、純粋な娘だった頃と。
     この瞬間だけ。
     出会ったばかりの、俺が18で彼女が16だった頃に、時間が巻き戻されたみたいだった。


引用投稿 削除キー/
■494 / inTopicNo.7)  Re[7]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/09/05(Fri) 11:01:26)

    「本当にすまない。船から降りるほど、俺はきみを追い詰めた」
    「…………」
    「とってつけた風に聞こえるかもしれないが、捜したんだ、必死で」
    「あたしは逃げたわ、必死で」
    「どうりで」
    「……うやむやな生活に、くたびれちゃったの。もう……」
    「ごめん」
    「……いいわよ。もう」
     そう口にするとアルフィンは軽く背伸びをして、自らの意志で、俺の首に両腕をからませた。鼻先をシャツの襟元に、うずめてくる。
     俺も合わせるように、彼女の腰に腕をまわし、きつく抱いた。
     俺たちは本当に、もう一度出会えた。それを確かめるための固い抱擁だった。
     だが、こうしてもっとも触れ合うことができた時に……。
     彼女は初めからこの瞬間を、狙い定めていたのかもしれない。
     短く、切り出された。
    「でも、これで終わりにする」
    「──え」
    「だってあたし……、夫を裏切れない」
     アルフィンの静かな深呼吸が、俺の耳たぶを吹き抜けていった。
    「そうでしょ?」
    「……だろうな」
     もう感情のままに行動していた、あの頃は違う。俺は急に、今へと引き戻された。
     後先を考えず、王女という地位を捨てて飛び込んできた時の、無鉄砲さや軽やかさ。それを失うことは、大人としての確かな足固めをはじめることと同意。
     俺たちはもう、そんな年齢だった。

    「でも、こうして逢ったら、ちょっとは裏切りよね」
     ふう、と小さなため息が漂う。
     アルフィンは子猫がじゃれるようにして、俺の肩に乗せたおでこをこすりつけた。
     彼女特有の、あまえている時の仕草。甘酸っぱい想いが、俺の胸の内を満たす。
    「逢えて、嬉しかったよ」
    「本当は迷ったの。とっても悩んだわ。だってあなた、いつまでも煮え切らない最低な男で……」
    「最低な男で?」
    「いつまでも忘れられない、最高の人だから」
     胸が詰まる言葉だった。
     俺はどうにも堪えきれず、いけないと思いつつ、彼女の右頬に軽く口づけを落とす。
     瞼を閉じたまま、大人しく、アルフィンは受け入れてくれた。
    「……すげえ殺し文句。このまま、さらっていきたい」
    「できないわよ」
    「わかんないぜ」
    「ううん、できない。そういう人よ、ジョウは」
     やっと彼女は。
     あの愛らしい声で俺の名を呼んでくれた。
    「もうあたしを困らせるようなこと、しない。そう信じてるから、あたし、逢いに来られたんだと思う」
    「信用されるのも、辛いもんだな」
     彼女は、くす、といたずらっぽく笑った。
     俺にしてみればよっぽど、アルフィン、きみの方がずっと意志が固い。しっかりしている。たとえいま俺に、こうして抱きついていたとしても、心の中にいるもう一人に男に完全なる操を立てているに違いない。
     一見、流されそうで、危なそうに思えても。
     アルフィンはもう、俺のもとには戻ってこない。
     それがよく、わかった。

    「亭主と、幸せに暮らせそうか?」
    「それって、余計なお世話」
    「愛してやれよ、ちゃんと」
    「あたしのことより、自分の心配をしたら?」
     会話が、現実味を帯びてくると。
     しがみついていたアルフィンは、俺からすっと身を引いた。数センチ離れたところで、俺を軽く見上げる。うっすらと碧眼が潤み、まつげが少し湿っていた。
     そして指先は名残惜しそうに、俺の腕に引っかかる。
    「ねえジョウ、お願い」
    「願い?」
    「ちゃんと幸せになって」
    「……俺は」
    「あたし、いやよ。今みたいに、どこか重苦しいまんまのジョウなんて」
     即答できずに、俺は口ごもる。
    「宇宙のどこにいても、ジョウの噂、あたしはずっと探ってるから」
    「…………」
    「遠くからでも、あたし、見守ってるから」
    「……それは、心強いな」
     彼女の結論に同調してみせた。
     が、俺は。
     一人じくじくとした痛みを抱え、喘いでいた。
     本当に俺は、なんて馬鹿だったんだろう。こんなにも大切で、愛おしい存在を、あの頃になぜしっかりと捕まえておかなかったんだ。
     あと少しの勇気があれば。もう少し素直に接していれば。きっと今のいままで、アルフィンは隣で笑っていたはずだ。俺だけをその碧眼に映して。
     5年前から、止まったままだった時間、そして空気が。
     朽ち果てるようにして、すべてを無へと帰す。そこからまた、新しい時間が生まれるんだと、俺はぼんやりと眺めている感覚に墜ちていった。


引用投稿 削除キー/
■495 / inTopicNo.8)  Re[8]: タイムスリップ
□投稿者/ まぁじ -(2003/09/05(Fri) 11:57:58)

    「……貴」
     闇の中で。
     聞き慣れた声が、ぽつんと俺の耳朶を打った。
    「……兄貴、起きとくれよ」
    「───!」
     身体が跳ね起きた。
     なんだ?
     心臓が暴れる。
     俺は無意識に胸を押さえた。指先が固いものに触れる。……アートフラッシュ。なんでクラッシュジャケットを着てる? 俺は状況がさっぱり分からず、せわしなくあたりを見回した。
    「なあ。うたた寝しちまったら、レポート進まないじゃんか」
     呆れた口調。
     そしてひょいと目の前を、小さな肢体が横切る。
     テーブルの向こうに、グリーンのクラッシュジャケット姿が着席した。
    「リ、リッキー?」
     情けないことに、俺の声はひっくり返った。そして瞬きをしつこいくらいに繰り返す。
     テーブルに両手をつくと、リッキーは身を乗り出してきた。呆気にとられている俺の鼻先に、そのどんぐりまなこを突きつける。
    「……? どうしたのさ。豆鉄砲でも食らった顔してら」
    「い、いや」
     俺は拳で額の冷や汗を拭いながら、必死で状況を手探りした。
     ここは。
     <ミネルバ>のリビング。テーブルに置かれた端末、そして散らかった書類。
     ───思い出した。
     この数ヶ月、息つく暇もないほど仕事がたてこんで、俺はいわゆる本部への通達業務を怠っていた。そしてようやく久かたぶりの休暇。別行動をとっても構わなかったが、タロスが全体責任と言い張り、俺の後始末が終わってから本格的な休暇に入ることが決まった。
     俺だけリビングに缶詰になって、最後の任務を終えた勢いで一気に片づけるつもりだった。
     そのはずが。どうも気が抜けて眠っちまったらしい。
     てことは、今のいままでのこと。あの苦々しい出来事は……夢? アルフィンに愛想を尽かされる。実際にありえそうな内容だっただけに、俺はまだ現実とごっちゃになって気持ちの整理がつかない。
     しかしながら。
     バーの老店主は、よくよく思い返すと、前の仕事のクライアントにそっくりだ。店のつくりは、さらに前の任務で、情報屋と落ち合った場所とリンクする。
     ひとつひとつ冷静に振り返れば、所詮、夢でしかないと頭ではわかってきた。
     それにしても、なんだってあんなもんを……。
     数ヶ月ぶっ続いた疲労が溜まったせいか。それとも。
     俺の潜在意識のなかで、アルフィンに対する漠然とした不安があるからなんだろうか……。

    「なあ兄貴。疲れてんの、俺ら重々わかってんだけどさ。あとひとふんばりしないと、やばいこと起こるぜ」
    「……やばい?」
    「アルフィンさ」
    「……ア」
     かっ、と身体が熱くなった。
     俺はごまかすように、咳払いをひとつする。
    「リビングにこもって、もう14時間経っちまってる。アルフィンはすっかり、休暇の荷造り終わってるしさ。あとはどこに泊まろうかしら? って、パンフレット片手にじれてるぜ」
    「……リッキーが相手してやれよ」
     俺はテーブルの書類を適当に引き寄せながら、いかにもレポートの続きに取り組む素振りをみせる。
    「したけど、アルフィンがもう限界。早く兄貴に相談したがってて、うるさいんだ」
    「……俺はまだそれどころじゃない。おまえたちが気に入ったところに決めりゃいいさ」
    「ったく。わかってないなあ」
     リッキーは両の腕を、頭の後ろで組んだ。
     そして、あーあという様子でソファで反っくり返る。
    「ここでアルフィンの機嫌を損ねちまったら、せっかくの休暇が台無しだよ。兄貴、女の子を怒らせるのって、こういう男にとっちゃ他愛もないことだったりすんだぜ」
    「──う」
     キーボードの指が思わず滑った。
     リッキーはガキのくせに時々するどい。そして俺にとって痛いところを平然と突いてくる。あんな夢見の悪いあと。いまの俺にとって、これほどど真ん中な忠告はないといっていい。
     しかし。
     まだアルフィンと顔を合わせるのは、心臓に悪すぎる。悪夢とはいえ、アルフィンを失った絶望感と、あの後悔。俺の身体のなかで、本当にあった出来事のように色濃く残っている。充満している。
     こんな心境じゃ、どんな行動に出ちまうかわかりゃしない。
     クールダウンが必要だ。
     それまで、アルフィンのことはリッキーで、うまくやりくるめて欲しかった。
     が。
     ───そう切に願っている時に限って。
     間の悪いことは続く。
     空圧が抜ける音と共に、リビングのドアがスライドする。その音を耳にして、俺は密かにぎくりとした。
    「ねえジョウ」
    「うわあっ」
     目の前にいるリッキーが、ソファから落ちた。俺はドアを背にしているせいで、姿を拝んではいない。
     だが。
     体温が急上昇する。胸の真ん中が、ぎゅっと締めつけられた。背中にいやな汗が浮く。
     ……まずい。
    「あら、あんたいたの?」
    「え? えへへ。ちょいと兄貴の様子見に……」
     リッキーは揉み手をしながら、ソファから離れた。こいつ、退散する気でいるらしい。
    「忙しいからと思って遠慮してたのに。そう。少しくらいなら平気そうね」
    「へ、平気なんじゃないかなあ……」
     勝手なことをぬかしつつ、リッキーは確実にドアへと移動している足取りだった。ちょっと待て。俺たちを2人きりにするな。
     だが声には出せず、俺はただ恨みがましい目線をリッキーに向ける。……人間にとって、言葉は大切だと俺はこのとき切実に思った。なにせリッキーは、俺の睨みを「邪魔者は消えろ」と解釈したようで。そそくさとリビングを出ていってしまった。
     ……やっちまった。
     俺は己の不甲斐なさに、この状況を自ら招いたことに頭痛がしてきた。頭を抱えたいとは、このことだ。

    「ジョウ、ちょっといい?」
     俺の返事も聞かずに、アルフィンはさっさと隣に腰を下ろした。有無をいわさずの、彼女らしい行動。俺は視界の端で、赤いクラッシュジャケットを確認するのがやっとだ。
    「いろいろ調べたんだけど、こっちとこっち、どのホテルがいい?」
    「……そ、そうだな」
     端末のモニタから目を離さず、俺はおざなりの相槌を返すので必死。アルフィンが隣にいる。情けないことに、動揺の頂点にいた。
    「もう! ちゃんと見てよ! こっちとこっち」
    「お、おい……」
     広げたパンフレットを、端末と俺の視線の間にずいと割り込む。同時に、彼女が一層、密着してくる。俺の左の腿の辺りに、彼女の膝頭が触れる。
     背中にぞくりと痺れが走った。固唾を飲む。
     とんでもなく……まずい。
     アルフィンを失う疑似体験をした俺に。もう二度とあんな想いはたくさんだと、身を切られた俺に。
     こうも無防備なまでに、近寄ってくるとは。
     俺自身、抑えきる自信がからきし無い。しかし彼女に内情を打ち明ける訳にもいかず、こんな気持ちを持て余してると知られたくもない。
     俺は。
     ますます無口になった。
    「……水上コテージがね、すっごく素敵なの。でも場所がちょっと遠いのよね。ジョウも気に入ってくれたら、移動のロスは覚悟でどうかしらって思うんだけど。でね、こっちのリゾートホテルは……。んもう、ジョウ?」
    「……え? ああ」
    「ちゃんと、あたしの話し聞いてる?」
    「き、聞いてる」
    「なんか変よ、様子」
    「気のせいさ」
     ごまかしながら、俺はさりげなく姿勢を背け、目の前に広げられたパンフレットから逃れようと試みた。仕事の続き、を強調するようにして。
    「やだあ、どうしたの?」
     突如、アルフィンの口調がトーンダウンする。
     俺はまだどうにも彼女を直視できなくて、その声色が、不機嫌なものなのか、不安なものなのかも、正確に把握できずにいた。
    「もしかして、具合でも悪い?」
     アルフィンの手が、俺の肩にとんと触れた。
     ……あ。
     息が、詰まりそうになる。
     ストップ。それ以上、触れないでくれ。
     振り払いたくとも、やり方を間違えれば確実に彼女の逆鱗に触れる。どうすりゃいい。俺は相当に慌て、ひやひやしていた。
    「顔が紅いわ。熱でもあるの? やだあ風邪? どうしよう……」
     勘違いしたアルフィンも、取り乱しはじめた。病気じゃないと説明しようにも、俺は妥当な言い訳がさっぱり思い浮かばない。
    「ね、ちょっとこっち」
     ──女っていうやつは。
     いざとなると火事場のクソ力が出るらしい。アルフィンの手のひらが、俺の顔を包み込むと同時に、ぐいと力ずくで向きを変えられた。頸椎から、ぐきりと嫌な音が鳴る。
     そして、ごつんと、鈍い音も立て続いた。
     呆気にとられているうちに。
     俺の額に。
     アルフィンの愛らしいおでこが当てられている。碧眼が、わずか数センチという近さにある。おい、こら、ちょっと待て。緊張のあまり、俺は耳が遠くなってきた。
     くらくらと軽い目眩を感じ、視界もかすんできやがった。
    「仕事のしすぎで、オーバーヒートかしら」
     彼女の吐息が、俺の口元をかすめる。
     ……たまらない。邪な気分で狂わされそうだ。
     アルフィンの柔らかそうな頬が、唇が、すぐそこにあると考えただけで。俺はもう酸欠状態だ。
    「アイスノン、持ってくる?」
     俺の崖っぷちな心境も知らずに。欲望をちらつかせていることも知らずに。彼女の声は、俺をいたわろうとする、純粋で無垢な口調。こっちとのギャップに余計戸惑う。
     頼むから、離れてくれ。
     でないとアルフィン、俺は……。

     いまこの場できみを、
     押し倒してしまいそうだ。


    <END>
     

fin.
引用投稿 削除キー/



トピック内ページ移動 / << 0 >>

このトピックに書きこむ

書庫には書き込み不可

Pass/

HOME HELP 新規作成 新着小説 トピック表示 検索 書庫

- Child Tree -