| 気の利いたBGMもない、古びたカウンターバー。年老いた店主がグラスを磨く音が、やけにでかく響く。そのせいで、窓一つ無い店でも外の様子が分かる。 ……雨か。 まるで俺たちの逢瀬を阻むような、冷たい雨音が入り口のドアをざわりと撫でた。 来ないかもしれないな。 俺はその言葉と一緒に、ウイスキーのストレートを喉に流し込んだ。 「こんな店を、待ち合わせにしたのが運のつきじゃ。ジョウ」 グラスを磨く手を休めずに老店主、ヨゼフ爺さんは言った。8年ぶりにこの店にふらりと俺は現れ、顔なじみの店主と挨拶もろくに交わさず酒を注文した。 来た理由など、一言も話しちゃいない。 でもばれていた。この年寄りは昔からこうだ。人を一瞥しただけで、胸の内を見透かす。 「……ほかに、適当なところがなかったのさ」 カウンターのコーナーに、唯一インテリアとして置かれたランプに視線を移し、俺は素っ気なく応えた。 そもそもこの店は、タロスの隠れ家のひとつだ。クルーが二十歳を迎えた時あいつなりのご褒美とかいうやつで、連れてこられる習慣がいつの間にかできていた。 年代物の酒がある訳じゃない。出される食い物が特に旨い訳でもない。ヨゼフ爺さんの人柄なんてのも、俺はよく分かってない。ただ、最初に来た客だけを、その日の客として扱う。席がひとつしか埋まらずとも、ヨゼフ爺さんは二番目の客を入れない。 だから一人で飲りたい時、気心知った連中と酌み交わしたい時。 一切の雑音がない店は具合が良かった。 「待ち人は男じゃなかろう?」 「さあ、どうかな」 「はぐらかしても無理よの。瞳がそう白状しとる」 「……ふん」 ヨゼフ爺さんはいましがた磨いたばかりのグラスを、カウンターに置き、酒棚から無造作にボトルを抜いた。そして自分のための一杯を注ぐ。 「諦めを知った顔をするようになりおって。……もう30くらいか」 「なんにも変わらず、そんな年になっちまった」 「変わらん男は、そういう顔をせん」 「いや」 ダークサーモン色のシャツ、その袖口のボタンを外し袖をまくる。もう窮屈な格好をする必要も、なくなったと思ったからだ。雨音がさっきより激しさを増す。こんな鬱陶しい夜に、面倒な男に逢いに来るとはな。 あり得なさそうだ、どう考えても。 「……変われなかったんだよ、俺は」 黒ネクタイの結び目を引き、弛めると、俺はようやく息苦しさから少しだけ解放された気がした。 ──何故。 何故、この店に来るよう彼女に言ったのか。どう誘いかけたのか。動転のあまり俺は、昼の出来事をつぶさに思い出すことができない。ただ覚えているのは。 薄れることのなかった記憶の中にいる彼女とは、ズレを感じる表情を突きつけられただけ。俺を見つめるとき、あの頃の彼女はいつも碧眼を輝かせていた。 でも昼に偶然再会した彼女は、瞳の奥をほの暗くかげらせて、俺を見上げた。 5年前。 突然、何の前触れもなく、アルフィンは<ミネルバ>を降りた。いや、前触れを感じなかったのは、俺だけだったかもしれない。彼女のことだ。心の中で少しずつ準備が始まっていて、俺がそれに全く気づくことなく、審判の日が訪れたと考える方が自然だ。 行方を捜そうにも、ピザンに直接問い合わせることはできなかった。元王女という身の上。簡単に公表はしないだろう。俺は別ルートで彼女の足跡を追った。低俗なネタを好むパパラッチの情報網。しかしそこでも、なんの収穫もなかった。 どこへ消えたのか。 理由も告げずに。 そして俺は、ガンビーノの言葉を思い返していた。逢いたいと思うには宇宙は広すぎて、偶然逢うには狭いところだと。宇宙港の入国チェックがあと1分でも遅かったら。 俺は、彼女に遭遇することはなかった。
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