| ノート型の端末、そのモニタの上を、ジョウの人差し指がなぞる。なにかのグ ラフだろうか。ボーダーラインが引かれ、縦軸には数値が記されている。そこ に赤や黄色、オレンジ色の曲線が交差している。まるでオーケストラの指揮の ように、曲線の形状はどれも似通っているのだが、波が大きかったり、小さか ったり、まちまちなのだ。 「なるべく鋭く突っ込む。そう……これくらい鋭角に」 モニタの右上にあったポインタを、指先でタッチする。そして左下へと、斜め に振りおろした。ジョウの指先の動きに合わせて、モニタの半分に白線のスラ ッシュが描かれる。 「こわーい」 デスクの角に、両手をつく姿勢で覗き込むアルフィンが漏らした。 彼女は、次の任務までのわずかな自由時間ゆえに私服でいた。爽やかさが匂い 立つようなレモンイエローのキャミソールはワッフル素材で、レースのトリミ ングが施されている。これにデニムのミニスカート。素足にはスパンコールが きらめく、ミュールのいでたちだ。 一方チェアに腰掛けているジョウは、さらにラフな格好でいた。 どうせすぐクラッシュジャケットに着替える心づもりなのだろう。グレイのヘ ンリーネックのTシャツに、ボトムは黒のスウェット。ルームウェアであり、 ジムでのトレーニングウェアにもなる。わずかな自由時間だからこそ、間に合 わせの格好で充分だった。 頭ふたつ分低い位置から、ジョウはアルフィンを見上げる。そして淡々とした 口調で続けた。 「大気圏の飛行で、本当に怖いのは失速だ。重力に対抗するためにも、揚力を いかに得るかがポイントになる。がつんと突っ込めば、翼がてっとり早く揚力 を掴みやすいんだ」 「このまま地面に叩きつけられない?」 「心配ないよ」 「ホント?」 「出力は、がばっと開けてな」 「がば、っと……」 「そうすりゃ自然に、機首が上がる」 ジョウは余裕の笑みだ。片やアルフィンの表情は、曇ったままである。 「高度どれくらいで手応えがくるの?」 「そうさなあ」 キーボードを操作する。そしてジョウがいくつかのテンキーを入力し終える と、モニタのボーダーラインに機体を模したポインタが映った。右上から、先 ほどジョウが描いたスラッシュのラインを、緑色の線がトレースしていく。モ ニタの左下でポインタが止まる。そして点滅した。 「酸素濃度によって誤差は出るけどな。一般的にテラフォーミングされた環境 下、約21%で計算すると……」 ジョウの目が、算出された数値に止まる。ついでに動きも止まった。 「ねえ、どれくらいなの」 すかさずアルフィンがせっついた。 モニタと彼女を、交互に見やる。そしてジョウは「テクニックは度外視なんだ が」と付け加えてから答えた。 「ファイターなら、高度約10メートル」 「じゅ……」 碧眼が、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。 「まあ軽飛行機だと5メートル、てとこか」 付け加えられたコメントに、今度は口をあんぐりと開け放つ。そしてデスクか らじりじりと、尻込みしはじめた。 「嘘でしょ?」 首を左右に何度も振る。その度に、金髪が波打った。 「10メートルなんて、目と鼻の先じゃない」 「ただこの高度が一番、強い揚力を得られる。地面効果を受けるからな。アッ パーカットを一発くらう感じ、てとこだ。強い反発がくるから、きっちりコン トロールしないとまずい。機首が上がりすぎると、失速しちまう。抑え込むた めには、気絶なんかしてらんないぜ」 はー。アルフィンの両肩が、だらりと下がった。 「だめ。話になんない」 両の腕で我が身を抱く。ぶるりと震え、首をすくめた。 「なんだ。さっきの威勢ははったりかい?」 デスクに頬杖をつき、ジョウはからかうような口調で突き返してきた。 勿論、案の定。 反射的にアルフィンはむっとした。唇を突き出した顔で、見下ろす。 互いのまなざしが、真っ向からぶつかった。すかさずジョウは、目元ににやに やと何かふくませた表情を浮かべる。視線だけでしばし、たっぷりと、アルフ ィンをけしかける。 「お、怖じ気づいたワケじゃないわよ」 「ほー」 「自己を冷静に判断したまで。今のあたしの技術じゃ、大気圏での飛行はちょ っとリスキーねって。けど、あくまでも今のあたしよ。今後のあたしだと、話 は変わるわ」 「それはそれは」 アルフィンから、弱気のオーラが消えた。最初、ジョウの船室に飛び込んでき た時と同じテンションに戻る。 それを見届けると、ジョウは端末に向き直った。キーボードをいくつか叩き、 終了作業を行う。 かすかな電子音をたてたあと、モニタはブラックアウトした。
──珍しくアルフィンが、きちんとした理由を抱えてジョウの船室を訪れた。 用件は、ファイターの操縦に関する相談である。 宇宙空間では、一通りの働きをこなせるようになったが、大気圏での経験値は 指折り数えるほどだ。大概はジョウのコ・パイ、もしくは地上装甲車のガレオ ンを任される。 何故そうなるのか、理由はひとつ。危険過ぎるからだ。 宇宙空間と異なり、大気圏は気流や気圧などが流動的で、はっきり言えば不安 定この上ない。咄嗟の反射神経だけでなく、機体の外鈑越しからでも変化を感 じ取れる、繊細な感性が要求される。 だからといって、アルフィンが鈍いという訳ではない。クラッシャー歴の浅さ を考慮すれば、適応力はかなり高い方だ。彼女自身も自意識過剰ではなく、冷 静にそう自負している。 そのうえ根っからの勝ち気も奏して、活躍の場をさらに広げたい意欲に湧いて いた。彼女の向上心は、新人の鏡と言えよう。 だが動機は至って単純なもので、もっとジョウに、頼られるだけの技術と経験 を身につけたい。これに尽きる。 宇宙空間は無限だ。それもうんざりするほど。しかしアルフィンには、その宇 宙空間にだけ出番を縛られることに納得がいかない。大気圏でも、充分な働き っぷりを披露したいのだ。でなければクラッシャーとして、一人前とはいえな いとも思っている。 そう息巻いてジョウに相談を持ちかけたのだが。 現実は、想像以上にシビアだった。 ジョウの端末にメモリされている、いくつかの事例を交えてレクチャーを受け るうちに、大気圏での操縦の全体像やクセが見えてきた。難易度が遙かに高 い。重力による身体的な負荷も踏まえると、相当の我慢と度胸も強いられる。 これは計算外だった。 アルフィンが弱音をうっかり吐いてしまうのも無理はない。17才の女の子の 心理としては、ごく自然な反応だ。 けれども慌てて撤回するあたり、アルフィンの性格がそうさせた。
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