| 船室のドアが、アルフィンの背後でぴしゃりと閉じた。小脇のファイルを、前 に抱きかかえるように持ち直した。 そのまま背中でドアに寄りかかると 「は……」 と、顎を上げて小さなため息をついた。 緊張の糸がぷっつり途切れた。急にどきまぎと心臓が跳ねまくる。無意識のう ちに、ぎゅっ、と彼女はファイルを抱きしめた。 ──なにせアルフィンは、熟睡していなかった。 かといって寝たふりをしていた訳でもない。うとうとと、夢うつつにまどろ む、その真ん中にいた。 ジョウに無理矢理起こされたときは、もちろん何が起こったのか分からなかっ た。ただ「珍しく乱暴」なのが感じとれると、ジョウを取り巻く空気の熱っぽ さに気がついた。 恥ずかしい言葉でたとえれば、発情している匂いだった。何故突然? とも過 ぎったが、男はそういうものかと思えた。また日頃の奥手さを知っているだけ に、あれがどれほど逼迫していた状態かが想像ついた。 最初は唐突すぎて、アルフィンは怯んだ。それに心の準備がまるでできていな い。寝ぼけたふりをして、駄々をこねて、時間稼ぎをした。 けれどもとうとう押し倒されたとき、彼女は観念する。なにせ相手は、ずっと 焦がれ続けたジョウなのだ。何を迷うことがあるのだろう。 女として、好きな相手からがむしゃらに求められることは幸せだ。自分はこん な風に少女の殻を破るのか。そんなことを頭の片隅で考えながら、その時を、 その瞬間を、流されるまま受け入れるつもりでいた。 ところが…… 結果はあの通り。 彼女を力ずくで押し倒したままジョウは硬直し、我を取り戻した時にはもう、 いつもの奥手な男になっていた。 正直、拍子抜けした。 そうは思っていても、あの後のジョウの態度が辛かった。みなぎる自信がすっ かり影をひそめ、マイナスの極限までに思い詰めていた。もしアルフィンが冗 談で「船から降りて」などと口にしようものなら、何のためらいもなく、絶対 零度の宇宙空間に身を投じかねない。二人の間を対流する空気は、ひりひりし ていた。 アルフィンの胸はきゅんと痛んだ。 見ているこっちが、切なくて、苦しい。 だから彼女は「知らぬふり」を貫こうと思い立ったのだった。 今日までの二人にとって、あれほど互いが再接近したことはない。そのとって おきの思い出もろとも、アルフィンは帳消しにするリセットボタンを押した。 ジョウのために。 ちょっぴり惜しい気はしたが、これからもジョウと一緒に生きていくのであ る。もっとお互いが自然に惹かれ合う時がくると、未来に希望を託したのだっ た。
ジョウの船室の前で、立ちつくすこと数分。 通路の右手から、軽快な足音がやって来る。アルフィンは首だけそちらに向け た。 早くも、クラッシュジャケットに着替えたリッキーだった。 「あ! アルフィン」 小走りから、ダッシュに切り替える。 たたた、と一気にリッキーは走り寄ってきた。そして目の前で急停止。 「──なあ聞いたかい? ポンヌフ入り、30時間後に延びたんだってさ」 「らしいわね」 「知ってたんなら良かった。俺ら丁度さ、見たいチャンネルがあったもんだか ら、すげえラッキーだよ」 ぱちんと指を弾き、全身でその喜びをアピールした。 それに対し、アルフィンの柳眉が険しくなる。 「んもう、リッキーたら。ラッキーなんて不謹慎よ」 「へ? なんでだい?」 「だってそうでしょ? 大統領の身内にご不幸があったからなんだもの。い い、リッキー。こういうことは直接関係ない人の話でも、無闇にやたらとはし ゃいだりしたらいけません」 まるで姉か、教師か。そんな風にアルフィンはリッキーをたしなめた。 そもそもまったく悪気はなかったのだが。 アルフィンから忠告を受けてしまった以上 「そだね。わかった」 と、肩をひょいとすくめてリッキーは素直に応じた。これに対しアルフィンも 「よろしい」と、満足げに頷くのだった。 すると、他愛ない会話のついでに、リッキーが質問をぶつけた。 「アルフィン、その大事そうに抱えてるもん、なんだい?」 聞かれて彼女は、指さしされたファイルに目をやる。 「ああ、これはジョウから借りたの。操縦にまつわる空力……」 と、ここまで口にしてから、なぜだかぱったり閉じる。 リッキーには、最後の方がどうもよく聞き取れなかった。 「操縦? なんの?」 どんぐりまなこをくりくりと動かしながら、当然のようにせっつく。 しばらく、なにか思い含ませた顔を浮かべたアルフィン。だが、次にはころっ と笑顔をつくっていた。 そして姿勢を軽くかがませると、リッキーの頭に右手を乗せた。 いい子、いい子、と。やぶからぼうに、赤毛頭を撫でるのだった。 「?」 訳分からず彼女を見上げるリッキーに、アルフィンは 「このファイルにはね、一度押したらとことん押し切るのも手、っていう操縦 法が書かれてるの」 と、意味深めいた言葉を実に滑らかに口にした。 「へっ?」 「まあ、あんたがもうちょっと成長したら、男の端くれとして読むことをすす めるわ」 これもひとつの忠告、とでも言いたげな顔をつくると、アルフィンは姿勢を戻 す。 そんな風に。 一応、ありがたいアドバイスを受けたはずのリッキーなのだが、顔面いっぱい に「?」マークが貼りついていた。 いまいちどころか、いまにもいまさんも、納得できないリッキー。しかしそん なことはお構いなしにアルフィンは 「じゃ、30時間後にまたね」 とだけ言い残して、金髪をひらりと翻すと自分の船室へと向かうのだった。
その後ろ姿を見送ったリッキーは 「なんだよ。わっけわかんねえなあ」 とぼやきながら、両手を頭の後ろで組むのだった。 女の子の考えることは、とかく難解なことが多すぎる。そんなことを脳裏に掠 めた。 そこでリッキーはふと、何かにひらめく。目線をちらと船室のドアの方に向け た。 「……兄貴に聞けばわかるかな」 貸した本人に聞くのが一番と、 もっとも常識的な判断を下したのだった。
<END>
※飛行に関する数字データや、船室のレイアウトはすべて勝手な空想です。 揚力の原理はたぶんあってると思うけど、戦闘機にも適合するかは謎(飛 行艇はアリらしい)。鵜呑みにするとガセビアになります。ご注意(笑)
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