| ドアの向こうから、くすくすと淫らな女の忍び笑いが聞こえて来た。 ふんと口許を歪めて、ノックも無しに勢いよく開け放す。 「きゃっ!」 半裸の女が慌てて胸元を両手で隠した。新顔だった。 女の下でだらしなくソファに寝そべっていた男が、ドアの方を見もせずに闖入者に対して文句を垂れた。 「…邪魔すんじゃねえよ」 しかし、招かれざる客は、全く動じる事なく長い足で豪奢なサイドボードに歩み寄り、しまわれていた車のキーを取り出した。 「こいつに用があるだけさ。好きに続けてくれよ」 そう言い残し、悠然とした態度で部屋を出て行った。 「今のが…?」 女が、信じられぬ様子で跨がっている男に尋ねた。 「そう。息子のタロスだ。驚くだろ? あれで、12歳なんだぜ」
真っ赤なエアカーを巧みに操り、その青年は夜の闇を縫うように街中を飛ばしていた。 実際の年齢はまだ12歳で、ジュニアスクールを卒業したばかりなのだが、既に180cmを越える身長としっかりと筋肉のついた体躯の為、およそそうは見えない。 いや、例えもっと小柄であったとしても、その身に纏う雰囲気故に、少年と認識されることは皆無であったことだろう。 甘いマスクにニヒルな表情を貼り付けた彼は、まるで人生に倦んだ遊び人のようであった。退廃的とさえ言えた。 どこを取っても子供のイノセントさなど、カケラも見当たらない。
けれども彼は、それでも確かに12歳の少年であったのだ――。
「ハァイ、タロス」 「今日は早いッスね、キング」 馴染みのクラブで仲間達に出迎えられ、タロスは店の一番奥にある指定席へと向かった。 黒革のソファにどっかりと沈む。ウエイターが持って来た酒の入ったグラスを、露出の多い娘がすかさず取り上げ、タロスにしなだれ掛かってその口許に持って行く。手慣れた儀式のような流れである。 礼も無しに、タロスは娘をからかった。 「今日親父に跨がってたビッチ、お前に似てたぜ」 痛烈な物言いだったが、娘は気にした風も無かった。ふふっと笑い、タロスにくちづける。 「親子だから、趣味も似てるんじゃない?」 「すぐにヤらせる女が好み、てとこは似てるかもな」 ひどぉいと文句を言いながらも、娘はなぜか嬉しげにその身体をタロスに擦り寄せる。周囲に集まった若者達が、お追従のようにヘラヘラと笑った。 (けっ。下らねえ) 若者達の王は、小さな王国の玉座で、早くも倦怠感に埋もれていた――。
キング・タロス。 界隈で彼は、そう呼ばれていた。 幼少期より他者を圧倒する体格に恵まれ、運動神経の良さも群を抜いていた。 10歳を過ぎた頃からその名が知られ始め、今では夜の街の大人達でさえ一目置く存在である。 肉弾戦では敵う者無しと、不良少年達から『キング』の称号が授けられた。 しかし、当人としては甚だ不服なことに、その名の由来には、タロス個人の力量だけではない、別の理由も存在していた。 すなわち、 「二代揃ってキングなんだよ。知らないのか? タロスは、キング・レオの息子なんだぜ」――。
キング・レオとは、地球のみならず、アメフト好きなら全宇宙で知らぬ者のいないスター選手のことである。但し、数年前まではの話だ。 恐れを知らぬ闘志と巨体に似合わぬ機敏さでチームを勝利に導き、巨額の契約金とファンの期待を裏切らぬ、超弩級の有名選手であった。 女性関係が派手なことでも知られ、様々な美女と浮き名を流し、その中でも飛び切り美しいモデルと結婚をし、子供を儲けた。 キング・レオは、その名に相応しい栄光と幸福を手中に収めた。誰もが羨む人生を、驀進していた。 しかし。 好事魔多し、とはよく言ったものだ。 その人生に陰りが見え始めたのは、それから間も無くのこと。 友人である有名俳優宅でのパーティからの帰り道、レオは飲酒運転で事故を起こし、大事な膝に怪我を負ってしまった。 本来なら丁寧なリハビリをしなければならないところ、自分の体と神の子たる運命を過信していたレオは、周囲の意見を一蹴し、程なく現役復帰を果たした。 暫くは何事も無く、完全復活、さすがはキング・レオとファンやオーナーを安堵させたが、無理を重ねていた膝は、無名選手からの渾身のタックルで完璧に壊されてしまった。 アメフトの世界では、サイボーグ化は認められていない。幹細胞による再生までが認められた範囲である。 しかし、幹細胞による再生は長期間を要し、苦しいリハビリがセットであった。しかも一般人ならともかく、一流のスポーツ選手として再び第一線で活躍出来るかどうかは、難しいところであった。 レオは、人生初の挫折にすっかり打ちのめされてしまった。 輝かしい人生が去ってしまったことがどうしても受け入れられず、再起に向けた地道な治療を諦め、酒と薬に溺れた。 引退後も、その体で稼いだ莫大な財産で生活に困るようなことは一切無かったので、群がる女達にも相変わらず事欠かなかった。 そんな体たらくでは夫婦仲も当然のように上手く行かなくなり、やがて妻は子供を置いて屋敷を去って行った。 その子供が、タロスである。 光り輝いていた父と美しい母が自分の世界から完全に消えてしまったのだと悟った時、タロスは八歳になっていた。 高性能ハミングバードと、次から次へと変わる若いメイド達のおかげで、家庭生活は何とか形だけは滞らずに済んだ。 そんな生活の中、入れ代わり立ち代わり父親のベッドに潜り込む、香水のキツい女達の存在にも挫けず、幼い少年は(その頃既に160cmを越える背丈であったが)、父の体を心配し、酒や薬を止めてくれるよう必死に懇願した。 復活してくれとまでは言わないから、ただ自分の体を大事にして欲しいと、至極真っ当な望みを訴え続けた。 しかし、かつてキングの異名を取った男は、濁った瞳で息子を見つめ、こう言ったのだった。 「俺はもう死んだ。死人が体を気にして、今更何になるってんだ?」 そして息子は、父の蘇生を完全に諦めた――。
(クソったれが) 纏わりつく娘や仲間達の慰留を振り払い、早々にクラブから一人出たタロスは、オープンタイプのエアカーを飛ばしながら、誰にともなく悪態をついていた。 何もかもが面白くなかった。 喧嘩をしても女と寝ても、タロスの胸に巣喰う憂悶を晴らしてはくれなかった。 こうしてエアカーを駆っている時だけは、ほんの少し憂さが晴れるような気がするが、車を停めた瞬間壮快感もどこかへ消え去ってしまうのが常だった。 学校の教師などはスポーツをやれと熱心に口説いてくるが、試したどれもが子供騙しに思え、タロスの血を沸かせてくれはしなかった。 (いずれ、ギャングになるしかねえよ。あいつは) 自分がそう言われていることは知っていた。 命のやり取りも少なくない稼業はスリリングで、正直魅力を感じなくもなかったが、タロスの知る裏社会の男達は皆一様に目が澱んでおり、その心を惹き付ける力を持ち合わせてはいなかった。
(タッチ・ダウーーン! キングが逆転勝利をもぎ取ったぁぁぁ!) ヒーローインタビューで、太陽のように晴れ晴れとした笑顔で意気揚々と答えていた父のまなざしが蘇る。 あれほど輝いていた瞳を、未だタロスは見た事が無い。 勿論、自分自身の顔にも――。
出し抜けに幾つもの銃声が響いたのは、そんな回想に耽っていた時である。 (抗争か!?) 持ち前の好奇心が、車の速度を落とさせた。 何が起こっていると、辺りの様子を窺った時、いきなり何かが後部座席に落下してきた。 ダシャンと、その衝撃にエアカーの腹が地面にぶつかる。目の端に火の粉が散った。 「何だァッ!?」 思わず大声を上げたタロスの背に、太くきっぱりとした声が掛かった。 「スピードを上げてくれ」 「…! 勝手に乗ってんじゃねーよ! 降りろ!」 タロスは力一杯怒鳴った。大抵の人間はこれで大人しくなる筈だった。 ぱかん。 タロスの後頭部に衝撃が走った。はたかれたのだ。 「てめえッ!? 何しやがる!」 タロスは吠えた。 突然人の車に降って来て、運転手の頭を殴るなど、理不尽極まりない。 カッと、頭に血が上った。 畜生、絶対許さねぇ。強盗だってんならそれでもいい。上等だ。運が悪いのはどっちか、その体に教えてやるぜ。 意気込み、車を停めて後ろの男を引き摺り降ろそうとしたタロスであったが、再び聞こえた声に唖然と口を開けてしまった。 「ぎゃーぎゃー喚くな。煩くてかなわん。ガキの癖に生意気な車を走らせてんだから、少しは大人のフリをしろ」 (ガキだと!?) 突然飛び込んで来た人間が自分の年齢を見破れる訳もなく、それは他人を見下す為の常套句に過ぎないと頭では理解しても、タロスの腹はぐらりと煮えた。 「随分じゃねえか。人に迷惑かけて殴っておいて、あげくにガキ呼ばわりかよ!」 「親の車を転がしてるうちはガキだ。違うか?」 「……!」 多少、そのことについては忸怩たるものがあったので、タロスは言葉に詰まってしまった。 数千万もするエアカーなど、12歳のタロス個人で買える筈も無い。無論、父親の持ち物である。 沸騰した頭が、少しだけ冷めるのを感じた。 タロスにしては、非常に珍しい体験である。 すると、怒りが完全に静まった訳ではないものの、それを凌駕するほどの強い興味が湧いてきた。 ここまで無茶苦茶で偉そうな人間とは、どんな奴なのだろう。 その顔が見たくて、バックミラーを覗き込んだ。 「!!」 そこに、獅子がいた。 と、錯覚した。
どこもかしこも厳しい線で象られたその男は、年の頃は三十前後、一目で『堅気ではない』と知れる独特の空気を放っていた。 かと言って、裏社会の人間とも断じ難い。特有の、すえたような匂いがしないからだ。 炯々と光る双眸が、ミラー越しに真っ直ぐタロスを見つめ返して来る。
(何だよ、この眼…!) タロスは混乱した。 それまで知っている誰にも似ていないこの男に、すっかり気圧されてしまっている。 (刑事? それとも軍人か?) よくは知らないがその手の人間かと、タロスはあたりを付けた。しかし…。
「その辺で降ろしてくれ」 暫く走った後、発せられた男の指示に、タロスは複雑な思いを抱きながらも素直に従った。 フワリと、エアカーが停まる。 ドアも開けず、男はヒラリと車から降りた。猫科の動物のように、しなやかな身のこなしだった。 (でけぇ) すっくと地面に降り立った男が、運転席に座るタロスを遥か上空から見下ろしていた。 横幅はさほどでないが、その全身を鋼のような筋肉が覆っていることは、服の上からでも容易に判った。 そして何か、目に見えないオーラのようなものが漂っているような…。
(こいつは) 戦う男だ。 タロスは、そう直感した。
今目の前にいる男が、決して飼い慣らすことの出来ない、荒々しい野性の獣のような男なのだと、タロスはその本能で嗅ぎ分けた。
「助かった。荒っぽいヒッチハイカーで悪かったな」 それだけ言い、男は去って行こうとした。 「待てよ」 タロスは呼び止めた。 「俺はタロス。あんたの名は?」 男が振り返った。 ほんの少しだけ、その口許が和らぐ。 「ダンだ。お前の運転、悪くなかったぜ、タロス」
そして今度こそ、男は闇に紛れて消えた――。
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