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■2744 / inTopicNo.1)  空想迷宮
  
□投稿者/ とむ -(2010/01/18(Mon) 13:32:55)
    1.記憶の鍵


    幼い頃の記憶は、忘却の彼方に。

    …遠い遠い記憶だ。
    あれは一体いつの頃だったか。
    本当にこれが自分の記憶なのか、それとも自らが勝手に作り上げた幻なのか、そんなことすら分からなくなる位、遠くて深い記憶の奥にそれは在る。
    夢の中では笑っている父の顔。
    「よくやったな。偉いぞ」
    初めて歩いた俺を真っ直ぐに見つめて、こちらに差し伸べられた力強い腕。
    転びそうな俺を、強く引き上げてくれる手の痛さが今でも蘇る。
    大きな掌で俺の頭を撫で付けて、小さな自分を肩車したまま、低くて掠れたバリトンで俺を呼ぶ。
    「ジョウ」
    父の肩。
    父の髪。
    ゆらゆら、ゆらゆら、父の肩の上で景色が揺れる。
    地平線に広がる夕陽の橙。
    麦畑の黄緑。
    母の笑顔が夕陽に霞む。
    あれは、一体。

    …いつの記憶だ。




    −−−とうさん。
    スクールの帰り、大きな七色の橋を秋の空に見つけて家路を急いだ日。
    久し振りに帰省した父に、その光景を見せたくて背中に背負ったカバンを揺らしては息の続く限り走った。
    見て。
    すごく大きな虹だよ、とうさん。
    この大きな虹の始まりはどこにあるのかな。
    この虹は一体どこまで続いているんだろう。
    とうさん。
    宇宙からこの虹を見たら、一体どう見えるの。
    小さく見える?
    手で掴めそうなくらい頼りなく見える?
    それとも空に引っかかった小さなカーテンみたいに見えるのかな。
    ねえ、とうさん。
    それは一体どんな風に。
    期待に満ちて見上げる俺に
    「確かめるんだな。ジョウ、それはお前自身で」
    そう一言だけ答えて、父は再び空を仰いだ。
    差し伸べた掌は握られることはなく、俺の右手はそのまま空を彷徨う。
    …とうさん。
    一人で家に戻る父を見送りながら、取り残された俺は無言で父の背中を見つめるしかなかった。



    本当は喜んで欲しかった。
    ああ、本当だ。
    すごく大きいなと一緒に笑って欲しかった。
    久し振りに戻ったのに。
    久し振りに話をするのに。
    とうさんは黙っている。
    夕飯を作りながら
    「明日からまだ仕事だ」
    そう言う父に、俺は何も言えなかった。

    (俺も行きたい)

    いつしか俺の中に生まれた願い。
    いつか俺もとうさんと同じ宇宙に行きたい。
    とうさんの見るものを同じように見て、とうさんの感じることを同じように感じてみたい。
    きっと想像も出来ないほどの広い宇宙。
    無限に続く星々と漆黒の闇が目の前に広がり、例えようもない昂揚感を持って俺を手招きするだろう。
    そこで味わう胸の高鳴りや冒険の日々。数々の成功とそれを賞賛する喝采の声。
    生きていることへの充実感に恍惚とする毎日。
    そんなたくさんの未知の世界が、きっとどこまでも広がっている。

    それを俺も見てみたい。
    それを俺も肌で直に感じてみたい。
    そうすれば。

    とうさんは俺のことをちゃんと見てくれるだろうか。
    とうさんのことが少しは分かるようになるだろうか。
    俺はとうさんのことが知りたいんだ。
    とうさんのことが分かるようになりたいんだ。




    だから。
    クラッシャーとして旅立つ日、俺は小さな秘密を持つことにした。

    俺の中の深い森の奥に、あの優しい思い出を隠しておくのだ。
    小さな箱の中に、それを大事に閉じ込めて鍵を掛ける。
    そして、それをまた少し大きな箱に閉じ込めて。
    何重にも何重にも重ねて、ちょっとやそっとでは開けられないようにしておく。

    くじけないように。

    ふるさとの地に帰りたいなどと思わなくて済むように。
    温かいあの思い出がうっかり出てきて、自分を揺さぶったりしないように忘却の森に埋めてしまおう。
    そうして俺は深緑の枝が深く覆いかぶさる森から、出口を目指して一目散に走り出す。


    ひたすらに父の背中を追いかけるために。


    いつか。


    父と並んで走れるようになる、その日のために。


引用投稿 削除キー/
■2745 / inTopicNo.2)  Re[1]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/19(Tue) 14:19:51)
    2.慟哭の雨


    風の音が聞こえる−−−。
    俺の心に嵐をもたらす、暗く、厚く、黒い影がゆっくりと確実に近づいてくる。
    それはその重い首を低く擡げて、深い森を覆いつくすように、じわりじわりとこちらに迫ってくるのだ。
    雷鳴と共に。



    「…今回の件に関して、連合宇宙軍からアラミス本部を通じて議会に連絡があった」
    通された会議室で待っていた父は、僅かな笑みで俺を迎え入れた後、間髪をおかずにこう言った。
    鈍器で頭を殴られたような衝撃を感じて、俺はしびれる頭で父の顔を見上げる。
    その顔はもう既に笑ってはいない。
    そこにあるのは、ただ平坦な顔をしてこちらを眺めている父の顔。
    窓の外ではどんよりと曇った曇天の空に、ヒューヒューと荒れ狂う嵐が近づいていて、その音を聞きながら俺は薄っぺらい言い訳だけが、体の一番奥底にカラカラと音を立てて落ちていくのを感じていた。
    気がつけば、父は窓の外を見ている。
    タロスが二人の間を彷徨うようにして何か言葉を発しようとしたが、父の背中には「拒絶」の二文字だけが貼り付けられ、いくら目を凝らしてみても一欠けらの取り付く島すらない。

    父は一言も俺に言い訳をさせる気はないのだ。
    小さな点のように胸に落ちた失望が、じわりと染みのように広がっていく。
    俺の言い分を一言も聞こうとしていない父。
    俺にまったく視線を寄越そうとはしない父。
    クラッシャー評議会の最高責任者、現評議会議長、クラッシャーダン。

    「…これは誤解だ。でなきゃ、何かの罠だ」
    乾いて粘つく口で、辛うじて俺は慄きながらも、やっとのことで掻き集めた言葉を搾り出す。
    −−−せめて釈明を。
    チームの名誉のために。
    そんな暇はなかったのだと。
    そんな状況ではなかったのだと。
    これは人助けであったはずなのだと。
    だが話そうと思えば思うほど舌は縺れ、口にしようとする言葉は空々しいまでに体の中を空転する。
    「…そうだろうな。それはもちろん、そうかもしれん」
    俺の言葉を受けて白々しくも冷たい一瞥を寄越した父がチラリとこちらを見たが、その表情からは俺の思いを汲み取ろうなどという気配はこれっぽっちも読み取れない。
    「しかし、だからこそ、急ぎや飛び込みの仕事の要請が入った時には、その仕事が違法なものでないかどうかをアラミスに照合してチェックを受ける。…お前はそれを怠った」
    「!…仕方がなかったんだ!緊急で!人の命がかかってたんだ!」
    「いい訳だな。…それは通用しないぞ、ジョウ」
    「…!」
    「評議会の決定を伝える。6ヶ月の資格停止だ。アラミスに戻って謹慎しろ」
    一瞬で、目の前の景色がぐらりと揺れる。
    何を言われたのか理解できず、俺はあんぐりと口を開けたまま冷たい父の顔をひたすらに見つめるしかない。
    「…おやっさん!おやっさん…。…そいつぁ。そいつぁ、あんまり…」
    タロスが慌てた様子で父に抗議を申し出る。
    しかし。
    そんなタロスをさらりとかわし、手元のアタッシュケースを開けて机に広がっていた書類をさっさと戻すと、父はそのジッパーを締めて「通達は以上だ」と踵を返して出て行った。
    パタンという乾いた音と共に、目の前の扉が閉まる。
    こちらを一度も見ないまま、部屋を出ていった父の残像が網膜に焼きついたまま頭から離れない。
    父の足音がだんだん遠くなるのを意識の外で聞きながら、俺は体が震えてくるのをどうにも止めることが出来なかった。


    思考は停止し、肉体は固まって指一本ですら動かせない。
    それなのに、幾多の感情が一度に押し寄せてきて俺を嵐のように翻弄する。
    憤り、怒り、後悔、失望、そして−−−余りにも耐え難い屈辱。
    あまりにたくさんの冷たい感情が押し寄せてうまく息が出来ない。
    「…ジョウ」
    横にいるタロスが小さく発した言葉も、俺の耳にはこれっぽっちも届いてはいなかった。


    −−−クラッシャーとしてチームを持って以来、ずっと走り続けてきた。
    一日も早く一流と言われるようになりたかった。
    俺はこの仕事に生きがいを感じているし、この仕事が好きだ。
    命をかけて成功を掴み取るその感触。その充実感。
    その達成感と恍惚感だけが俺を更なる高みへと押し上げる。
    俺はこの仕事で銀河随一の称号を得るのだ。



    でも。
    それだけではダメだ。
    一日も早く、父であるあの男の影から抜け出さなくては。
    それは同じチームで仕事をするタロスやリッキーやアルフィン、今は亡きガンビーノを他から揶揄されたくないという思いと、皆が自分のチームにいる事によって「ああ、あのダンの息子のチームか」と評されることへの無言の抵抗。「流石、クラッシャー創始者の息子のチーム」と評されることへの抗議。

    俺は、俺だ。
    俺の特Aとしてのキャリアは俺が築いてきた、俺だけのものだ。

    …若造のクラッシャーと見下されるのは嫌だ。
    だが、それ以上に「あのダンの息子のチーム」と見られることだけは俺のプライドが許さない。

    (…もう子供の頃の俺じゃない)

    親父に喜んでもらいたくて、ひたすらに虹を追いかけていた頃の俺じゃないのだ。
    ギリ、と唇を噛んで父が出て行った扉を睨みつけると、俺はタロスが止めるのも聞かずに、父が示した通達書をその扉に思い切り叩きつけた。
    「ジョウ!」
    後ろからアルフィンとリッキーの悲鳴のような声が聞こえる。
    (…見返してやる)
    怒りに燃え、屈辱に震えながら、俺はこの扉の向こうを歩く父の背中を睨みつけた。
    (絶対にこのままでは終わらせない)
    (絶対に、あの男に俺が一人前だということを思い知らせてやる)
    (絶対に、あの男を超えてやる)
    言いようのない屈辱に満ちたその怒りは、罠に嵌められたことでポカリと開いた心の空洞を一気に駆け上がる。それはまるで、新鮮な空気を求める炎のように、凄まじい勢いの嵐となって俺の中で荒れ狂っていった。
引用投稿 削除キー/
■2746 / inTopicNo.3)  Re[2]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/20(Wed) 16:37:52)
    3.メリーゴーラウンドは回る


    「…ジョウ」
    長い廊下の向こうから蛍光灯の仄かな明かりを背にしたアルフィンが近づいてくる。彼女のブーツの音が静まり返った廊下に響き渡り、それがまた天井にぶつかっては落ちてくる。
    「………」
    「…大丈夫?」
    すぐ横に腰を下ろしたアルフィンはその細い指で俺の右手を包み込みながら、斜めに覗きこむようにして俺に顔を向けてきた。
    「…ああ」
    夢から覚めたように見上げると、神妙な顔をしたアルフィンの瞳とかち合う。
    少しだけ苦笑い。
    俺は項垂れていた上半身を持ち上げるようにして、左手で顔にかかった前髪をかきあげた。
    「…タロスとリッキーはもう<ミネルバ>か?」
    「うん。明後日からの仕事に備えて準備をしておくって。あたしはもう終わったから様子を見に来たの」
    「…そうか」
    「…ジョウ、何か食べた?…何か買ってこようか?」
    「いや、いい」
    「飲み物は?温かいコーヒーでもどう?」
    「…いいんだ。そういう気分じゃない」
    「…そうだよね」
    そのままアルフィンは黙り込み、俺も足元の床に同じように視線を落とした。
    うまい気休めの台詞も出せない自分にどうにもならない憤りを感じる。しかし、かと言って俺の頭では気の利いた台詞など、どの引き出しをひっくり返しても出てくるはずもなく、俺は仕方なく黙り込むしかなかった。


    …どうして病院の廊下というのは、こうも辛気臭いのだろう。
    ずっと昔、母が旅立って行った時もこうだったのだろうか。
    鼻にツンとくる消毒薬の臭いと、少し湿っぽく漂うどんよりとした空気。
    ここにいるだけで死神に魅入られそうな気がして心底うんざりする。
    本当は俺が知っているはずがない。
    俺はその時、まだ自分のことすらろくに分からないようなガキだったのだから。
    それなのに。
    どこかでこんな空気を感じたことがあるような気がして、どうにもこうにも落ち着かない。

    「…先生は何て?」
    不意にアルフィンが問いかけてくる。
    アルフィンの俺の手を握る掌に、ほんの少し力が加わる。
    俺はアルフィンを見て小さく笑った後、溜息をつきながら答えた。
    「…さぁて…。前から心臓に異常があったらしいが、いくら入院を勧めてもあの人は頑固としてそれを拒んだらしい。こんなに悪くなっちまってからじゃあ正直完治は難しいだろうが、兎に角全力を尽くすと言ってくれた」
    「そう…」
    頷いてアルフィンは手術中の灯かりを見つめた。
    どこか遠い目になって、じっと息を詰めている。
    「…ずっと夢を見ていた」
    そんな彼女に俺はぼんやりと言葉を投げる。
    今口に出した言葉がやけに遠くに聞こえた。
    「ん?」
    「今。親父の手術を待つ間。昔のことを断片的に思い出しては夢に見てたみたいだ」
    ぐるぐる、ぐるぐる、何度も繰り返される夢。
    子供の頃の俺が、何度も何度も俺に囁く。
    まるでメリーゴーラウンドだ。
    同じ夢が同じ処を回っては、俺の記憶をリバースさせる。

    親父の顔。
    俺の叫び。
    親父の顔。
    俺の痛み。

    「…どんな?」
    小さくアルフィンが問いかける。
    「…いろいろさ。親父の船でクラッシャーになって、散々しごかれていた頃のこととか、親父に仕事の失敗を怒られた時のこととか」
    「………」
    「マチュアの件で海賊どもにまんまと嵌められて、親父に謹慎を言い渡された時のこととか」
    「………」
    「いろいろだ」
    肩を竦めるようにおどけて見せると、アルフィンは眉を顰めるようにして
    「ジョウ…。夢って、どれもこれもそんなヤな夢ばかりなの?」
    と呆れてみせる。
    「…いいや。ガキだった頃のことも少しはな。でも、それも本当の記憶かどうかは分からない。もうとっくの昔にお袋は死んじまってたはずだし」
    「どんな思い出?」
    「親父に肩車されてた。お袋もいて笑ってた気がする。ここに着いたばかりには、冷たい顔の親父ばかりを思い出してたんだが、さっき見た夢はそれまでの夢とはちょっとばかり違っていたような気がするな」
    アルフィンが小さく笑う。
    「ジョウが子供の頃?…なんだか想像できない」
    「…何が」
    「あたしが知ってるのが仕事をしているジョウばかりだからだろうけど、ジョウが議長に抱っこされて泣いたり笑ったりしてたなんて嘘みたい」
    「俺だって、ガキの頃はあったさ」
    「へえ?いつも眉間に皺を寄せてばっかりいる変な子供?」
    「…あのな」
    ふふ、と笑ってアルフィンが俺の前髪を整える。
    俺は黙ってされるがままになった。
    「心配なのね。ジョウ」
    静かな瞳で見つめてくるアルフィンに
    「………。分からない」
    としか俺は答えられなかった。

    分からないのだ、本当に。

    今、心の中で感じているこの感情が、一体何であるのか。
引用投稿 削除キー/
■2747 / inTopicNo.4)  Re[3]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/21(Thu) 21:36:34)
    回転木馬が回り始める。
    頭の奥のさらにずっと奥で、懐かしいオルガンの音に紛れながら思い出が交差していく。

    親父への憤り、憎しみ、嫉妬、怒り。

    オルガンの音が記憶の森で木霊して、俺の身体は木々の碧に融けだすように霞んでいく。
    体の外に溶け出していく自分でも気付かなかった思いの群れたち。

    親父への憧れ、思慕、懐古。

    暗い思いと明るい思いが木馬のように回りながら、藍色に近い森にどろりと溶け出して全部それらが混ざり合っては巨大なうねりになっていく。
    纏わりつく緑、融けていく碧、覆いつくす藍。
    そして全てを飲み込む黒い影。

    親父への妬みと自己嫌悪。
    俺を好き勝手に批評していく様々なクライアントへの憤りと怒り。
    俺の一番奥にあった醜い感情が溢れてくる。
    親父の顔。
    俺の憧れ。
    親父の笑顔。
    俺の笑顔。
    深い緑の森に仕舞いこんだ記憶が、前触れもなく突然目覚めては俺を途方に暮れさせた。


    「…さっきまで、ここにバードがいたんだ」
    ぽつりと呟く俺にアルフィンがちらりと視線を流してくる。
    「聞いてもいないのに、あーだこーだとしゃべってった。あんなおせっかいな性格でよく情報部の仕事なんてやってられるよな」
    苦笑いを唇に乗せて肩を竦める俺を、アルフィンが何かいぶかしむような目つきで見つめている。
    ふ、と小さく笑って俺は続ける。
    知らず天井を見上げてしまう。
    「…マチュアの事件のことさ。あの時のことを今頃になっていろいろと話していったんだ」
    「…え?」
    目をぱちくりさせたアルフィンは、その碧い目を見開いたまま俺を見つめ返してきた。
    「あん時は俺達を嵌めて悪かったとか」
    「………」
    「決して俺達を利用するつもりでいた訳じゃないとか」
    「………」
    「でも、俺達なら絶対やれるはずだと信じていたとか」
    「…調子いいわ。相変わらず」
    「…まったくだ。調子がよすぎる」
    溜息とも笑いともつかない息を肩から吐き出しては、俺は天井から視線を落とす。
    膝の上に置いてあった手の甲に、シンとした空気までが落ちてきたような気がして俺は一瞬口を噤む。そして、長い溜息をつくように、その言葉を唇に乗せた。
    「…おまけに、きっとおやっさんもそうだったんだぜ、と余計なことまでしゃべっていったんだ。…ほんとに今更な」
    「、え」
    「親父が知らせたんだと。…ラゴールにバレンスチノスがいるって情報は、俺達に謹慎処分を言い渡した次の日に、親父がバードに伝えたんだってさ」
    「議長、が?」
    「俺に知らせるかどうかは、バードの勝手だと言って通信を終えたって」
    「………、」
    何かに気付いたような瞳をしてアルフィンは俺を見つめる。
    「…まったく。なんであの人は、ああなのかね」
    「…ジョウ」
    「…馬鹿じゃないのか」


    こんな風に、ずっと長いこと苦労して閉めていた箱の蓋を、何の前触れもなく開いてみせるのだ。
    あの人は。
    さあ、覗いてみろというように。
    差し出された箱に息を潜めて隠れていたものたちは、思いもよらないほどの戸惑いと切なさをもって俺を翻弄し、わざと見ないようにしていた俺の本当の願いを曝け出す。




    −−−こんな事になる前は。




    ただ父を目の前に聳え立つ巨大な障害として見ていればよかった。
    親父が何を考えているかなんて思いやる必要はなかった。

    ずっと馬鹿にされていると思い込み、憎しみにも似た感情のまま、ただ見返してやろうと意地になり。
    発せられる言葉と示される態度でしか父を見ようとせず、出来る限り互いの顔を合わせないようにしていれば。


    俺は俺のまま、ただ目の前にある仕事だけに没頭することが出来た。
    怒りのまま父に憤りをぶつけて、ひたすらに仕事に燃えることが出来た。
    憤ったまま父に叫び続けることで自分は間違っていないと思えた。
    このまま進んでいけば、いつか必ず父を越えられると、−−−そう思い込むことが出来たのだ。




    冷たい表情の下で父が隠していたものに気付かないままに。
引用投稿 削除キー/
■2748 / inTopicNo.5)  Re[4]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/22(Fri) 15:00:57)
    4.指の隙間に零れる光


    「…でも今更、そんなことを俺に知らせたところでどうなるっていうんだ」
    「………」
    「こんな状況で聞かされる身にもなれよ」
    「………」
    「…昔からそうだった。ずっと俺を掌の上で転がしながら見ていたくせに」
    「………」
    「俺の言い分とか、俺の都合なんか全くお構いナシで。ド・テオギュールの時もマチュアの時も、ずっとずっとそうだった。いい加減、俺だってクラッシャーになってから15年近く経ってるって言うのに、今ですらそこらのひよっ子と同じ扱いだったんだぜ」
    「………」
    「覚えてるか?マチュアの件で俺に謹慎を言い渡しに来た時の親父の顔」
    軽く肩を竦めるアルフィンを横目に、俺はずっと溜まっていたものを吐き出すようにして言葉を繋いだ。
    「あのどこまでも偉そうな顔がムカついた。俺をどこまでも半人前だと思ってる。どこまでいっても俺は親父には敵わない、敵う訳ないって思っているように見えた」
    「………」
    「いつも人を見下したような顔で、ずっと高いところから俺を見下ろしているように思えた。とうの昔に引退をしてやがるくせに俺のやることだけはいちいちチェックして。現役の苦労なんかちっとも分かっていないくせに口出しだけはしてくる、そんなところ全てにイラついた」
    知らず力が入り、握った拳が白くなっているのに気付いて、俺は溜息を吐くようにして体の力を肩から逃がしながら座っていた椅子に上体をゆっくりと預けた。


    …そうだ。
    ずっとあの人はそうだった。
    子供の頃から、優しい言葉などかけてもらった記憶は数える程しかない。
    仕事に失敗した時は、それこそ叱咤こそされ励まされたことなどただの一度もなかった。
    いつもそこにあったのは、厳しく張り詰めた視線を真っ直ぐに俺に投げ落としてくるクラッシャー稼業創始者としての顔。一欠けらの失敗も妥協も許さない、父というよりは上司としてだけの姿だった。


    そんな父しか知らない。
    そんな父しか、俺は今まで見たことがなかった。
    ずっと、ずっと長い間。
    それが今更、それが親父なりの愛情だったかもしれないなんて聞かされても、俺にはどうすることも出来ない。


    今更一体、−−−どうすればいいっていうんだ。




    すると。
    「あのね」
    俺が俯いてジッと床を睨んでいるところに、唐突にアルフィンが口を開いてきた。その声にゆっくりと顔を上げて、椅子の隣に腰掛けているアルフィンに視線を流してみる。そこには、どこか夢の中で話をしているかのような様子のアルフィンがいた。
    「…なに」
    「小さい頃にあたしが侍従に聞かされたお化けの話があるんだけど」
    「…は?」
    一瞬、俺は虚を突かれて間の抜けた声で言葉を返した。
    「あのね。舞台はすごく暗くて深い森の話。森のすごく奥にひっそりと佇んでいる館で起こる怖い話なの。そりゃあもう、物凄く怖いのよ。あたしそれを聞いた時、話をしてくれた侍従に、やめてもうやめてって泣いて頼んだくらいなんだもの」
    「………」
    訝しがる俺には一切構わず、アルフィンは坦々と話し続ける。
    「ある暗い森の奥にすごく寂れた館があるの。ある日、その森に二人の女の子がピクニックにくるんだけど、その二人が道に迷ってしまうのよ。散々森の中を歩き回って、やっとのことでその館に辿り着くんだけど、あまりの気味悪さに一人は入るのを止めようって言うの。でも、もう一人の女の子が辺りは夜になっちゃうし他には誰もいないようだし、もし誰かが住んでいたとしてもきっと黙っていれば分からないから、今夜はここで寝ちゃおうって言うのよ」
    「………」
    「二人は入る入らないで、しばらく扉の前ですったもんだするの。でも結局、辺りが真っ暗になっちゃって仕方なく館の中に入ろうとする。でもその扉はすごく重くて頑丈で、ちょっとやそっとれは開けられなかったの。しかも、一度中に入ってみれば、今度はどういう訳かその扉は、どんなに力を入れても開けることが出来なくなっちゃうのよ」
    「………」
    大変でしょ?とかなんとか言っているアルフィンを、俺は戸惑いの表情で見つめ返す。
    「扉が閉まっちゃって二人は驚くの。外に出られない。どうすればいいの、って考える。なんとか外に出なくちゃいけない。だって怖いの。暗くて寒くて、その上、館の中からはどこからか変な声が聞こえてくるのよ。呻いているような、苦しんでいるような物凄く嫌な声。すっかり怖くなって、友達の一人はどこか出口を見つけて森に戻ろうって言うのよ。すぐ帰ろうって。でも、もう一人の方はその声の主が誰であるかを知りたくて堪らなくなるの。その子だって怖いのよ?怖くて堪らないの。でもどうしても知りたい。この館の奥に一体何があるのか。この声の主が誰であるのか」
    「…アルフィン」
    悪いが今、そんな話を聞く気分じゃない。そう言おうとした時、アルフィンがこちらを振り向き重々しくこう言った。
    「たくさんの扉を通り抜けて、そうしてついに一人が最後の扉を開けた。すごく重い扉だったわ。ギーっと重い音がして扉が開き、恐る恐るその中に入ると、」
    両手を胸の前で組みながら、俺の顔を覗き込むようにしてアルフィンは語る。息を詰め、助けを請う少女になりきった表情で、俺に話の続きをするように迫っている。
    「…なんだよ」
    俺は溜息をつき、仕方なくアルフィンに言葉を促す。
    肘でつつくようにしてアルフィンの腕を小突くと、おどろおどろしい表情で低く唸るような声のアルフィンはいよいよ感極まったような顔でこう言った。
    「”見ーたーなー”」
    「………」
    無表情にアルフィンを見返す俺に構わず、アルフィンは話を続ける。
    「すごく恐ろしい『見たなー』って声を聞いたの。そして真っ暗な暗闇から大きな手がどろりと出てきて、女の子の手を掴んでこう言うのよ。『…さあ、もうお前は帰れない』」
    「………」
    「どう?」
    「…なにが」
    「怖いでしょ」
    「別に」
    「あれ?」
    「なんだよ」
    「怖くない?」
    「それで終わりか?」
    「…え、そんなもん?」
    「そんなもん?って言われてもな。…結局、そいつは何だったんだ?『お前は帰れない』って言った奴の正体は」
    俺の言葉を聞きポカンと気の抜けたような顔をすると、アルフィンはつまらなそうに椅子に腰を下ろし、そのまましれっとした顔で呟いた。
    「さあ、分かんない」
    「…はあ?」
    「マリーはそこまで話を作ってなかった」
    「…マリー…」
    「あたしの侍従の名前。当時は侍従長だったの」
    俺は「は、」と溜息のような声を出して眉を顰めた。そして、そのまま身体を預けていた椅子から腰を前方にずらして、頭だけを背もたれの天辺に引っ掛けるようにすると両腕を胸の前で組んだ。
    見上げた天井の点滅する蛍光灯の明かりが目に沁みる。

    …なんだか力が抜けた。
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■2749 / inTopicNo.6)  Re[5]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/25(Mon) 12:17:05)
    天井に顔を向けながら俺はゆっくりと瞳を閉じた。
    そんな俺に構う様子もなく、アルフィンは話し続ける。
    「まぁね。今考えればあたしもそう思う。なんでこんな話が怖かったんだろうって。なにせマリーがその日の気分で即興でつくった話だから、筋も適当だしあちこち綻びだらけだしさ」
    流れるように話すアルフィンの声が、疲れた頭に心地いい。とろとろと眠りに落ちそうな気分になりながら、俺は「そうか」とだけ言葉を返した。
    沈黙が一瞬、辺りを支配する。

    が。
    瞳を閉じたままの俺に向かって、でもその時は凄く怖かったのよね、とアルフィンはどこか歌うような声で言葉を繋いだ。
    「…不思議ね。怖くて怖くてすごく嫌だったのに、それでも何故か話の続きが知りたかった。何度も何度も夜が来るたびに、マリーにその話の続きをせがんだわ。また話して、またあの話の続きをしてって−−−」
    そう話すアルフィンの声を俺は黙ったまま聞いている。
    「…多分。多分、きっと」
    アルフィンは一瞬口を噤んだ後に呟く。
    「やっぱり誰でも本当のことって、怖いけど知りたくなるものなのよ」
    「………」
    「目に見えないもの程、余計に知りたくて、知りたくてどうしようもなくなるの」
    「………」
    「隠されてわざわざ奥の方に大事にしまってある物って、それだけで余計に気になっちゃうような気がしない?」
    「………」
    「それって、あたしが子供だったからそう思うの?」
    「………」
    「違うわきっと。大人もよ。大人だって分厚い扉の向こうに隠された本当のことって知りたくて堪らなくなる筈よ」
    「………」
    「でも、大人が子供と違うところは、きっと素直に『それって何だったの』って聞けなくなることね」
    小さく消え入りそうな声で呟くアルフィンの言葉に、俺はゆっくりと閉じていた瞳を持ち上げた。
    「きっと本当のこととか大切なことって、大人は大事すぎて、ずっと大事にしまいこみ過ぎちゃうのね。子供だったらすぐに『見せて』って言えることが、大人になるとなかなか言えなくなっちゃって」
    「………」
    「終いには、一体何をしまい込んだのかも分からなくなるの」
    「………」
    「そうしてるうちに、硬くて強い扉がたくさんたくさん重なっていって、自分では開けることも出来なくなっちゃうんだわ、きっと」



    アルフィンの柔らかくて優しい声が体の奥に染み渡る。
    開いた瞳で「手術中」の点灯を見つめながら、俺はずっと昔に鎖を巻きつけて鋼鉄の箱に閉じ込めた記憶を思い出していた。


    幼い頃の優しい記憶。
    夕陽を見ながら親子3人でアラミスの道を歩いていた。
    夕陽の眩しさや遠くから聞こえる家畜の鳴き声。親父の手の温かさ。母の胸の温もり。
    肩車をされて見下ろした移り行く風景。
    俺を呼び寄せる低い声。



    それは唐突に、それでいて静かに煌めく光を伴って、森の木々たちの隙間から零れ落ちてきた。
    まるでこれ以上はもう、隠しとおすことは無理なんだと言っているかのように。

    「…まったく…」
    「うん?」
    「参るぜ」
    「なにが?」
    俺は長い溜息を吐いてから、前方にずらしてあった腰を元の位置に戻し再び椅子に深く座り直した。そして両膝に自分の手を置きアルフィンの顔を覗きつつ、右手を伸ばして彼女の前髪を軽く梳いてやる。そして、そのままアルフィンの頬に掌を寄せて僅かに微笑んでこう言った。
    「ずっと俺が苦労して閉めていた箱の蓋を、君は何てことなく開けちまうんだな。アルフィン」
    「…え?」
    きょとんとした顔で俺を見つめ返すアルフィンに俺は思わず苦笑う。
    そして、顔中クエスチョンマークでこちらを見つめ返すアルフィンにほんの少しだけ救われながら、今まさに病魔と闘っている父を思って再び手術室の扉を見つめた。


    今、あの扉の向こうで死線を彷徨っている父。
    俺に「まだまだお前は半人前だ」と言い続けてきた父。
    俺に優しい言葉や労わりの言葉一切を寄越さなかった父。
    俺はそんな父の姿に反発し、闇雲にひたすら父の影から抜け出そうとしていた。
    ずっと長い間、父に馬鹿にされていると思い、父に絶望し憎悪に近い感情を抱いていたけれど。
    だが、こうしてアルフィンと共に父の命の灯火を静かに見守っている今は。





    だからこそ、俺は無心にこの15年もの間、仕事にのめり込むことが出来たのかもしれないとも思う。
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■2751 / inTopicNo.7)  Re[6]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/26(Tue) 12:53:14)
    誰よりも厳しい言葉で。
    誰よりも厳しい仕草で。
    俺を冷たく叱責する父への怒りや憤りは、確かに俺の仕事に対する原動力となっていた。

    父を見返すために。
    父を追い負かすために。
    そう思ったからこそ、俺はひたすらに上だけを見つめ、走り続けることができた。

    果たしてそれは、皮肉屋の父の企みだったのか。
    それともバードの言うように、俺への愛情の裏返しだったのか。
    あえて自ら悪役を買って出て、俺にそうと気付かせないよう俺の手を引き上げてくれていたのか、それは今でも分からない。
    −−−でも、あの夕暮れの橙の眩しさは今もなお。
    この瞼の裏に鮮明な煌めきを持って蘇る。

    ゆっくりとその蓋を開け始めた心の扉は、ずっと忘却の森に閉じ込めていた俺の記憶を静かに、穏やかに目の前に写し始めた。




    多分。
    アルフィンが言うように、きっと俺はあの記憶が大切すぎたのだ。
    忘れたかったというよりは、あまりにも大切すぎて体の奥底に沈めてしまわなければ、父から発せられる言葉にくじけそうだった。あの情景は余りにも温かくやわらかすぎて、それを守ろうと張り詰めた俺の心が父の放つ言葉の棘によって砕かれそうで怖かった。

    だから。

    忘れてしまいたかったのだ。
    優しかった父を。
    俺を力強く抱きとめてくれた父の腕の温かさを。
    俺がずっと長い間求めていたものは、きっと。
    他のなにものでもない、父の口から迷いなく自分に向けられる「よくやった」という一言だけだったのかもしれない。



    息を詰めたまま、じっと手術室の扉を見つめる俺を見て、アルフィンは密やかな笑みを唇にのせて静かに立ち上がった。俺はアルフィンを見上げて、どこか置いてけぼりにされる子供のような心持ちになって言葉を投げた。
    「…どうした?」
    「なんだか、やっぱり少しお腹がすかない?」
    そう言うアルフィンに、ああ、と俺は呟いた後、
    「………悪い。そろそろ夜中も1時過ぎだもんな。…アルフィン、眠いだろ」
    と眉を顰めた。
    「ううん全然。仕事の時にはこんなの当たり前じゃない」
    なあに、今更。
    アルフィンはそう言いながら、その愛らしい首を小さく傾げる。
    俺は曖昧な笑みを返して足元に視線を落とす。
    すると、
    「でもまあ、このままだとお腹がすきすぎて帰れなくのは本当かもね。温かい飲み物だけでも買ってくるからジョウも一緒にどう?」
    少しでも俺の緊張を解そうとしているのか、どこか気を遣ったようなアルフィンの声が耳の届く。
    「いや…俺は…。アルフィン、本当に俺は大丈夫だから君は<ミネルバ>に戻ってしっかり寝ろよ。明日も早いだろ」
    「そんなのジョウも一緒じゃない」
    「…俺の場合は家族だからな。だが、いくらなんでも関係のない君を付き合わせちまうのは気が退ける」

    …関係ない…。
    そう呟いて、さらに何か言いたげなアルフィンから視線を外し、俺は手術室の点灯に顔を向けて再び口を噤んだ。
    そろそろ父がこの厚い扉の向こうに行ってから7時間が経過しようとしている。
    病院の窓ガラスは強風にガタガタ揺れて、窓枠から鈍い音を立てていた。
    −−−親父も闘っているのだろか。
    この嵐に吹き去らされて、必至に枝を守っている木々のように、この扉の向こうではなんとか少しでも生きようともがいているのだろうか。
    この廊下でずっと頭の中を回っていて父の顔が、浮かんでは消え、そしてまた俺に語りかけてくる。



    もし。
    もしこの闘いに父が勝利して、再び俺の目の前に立つことがあるとしたら。
    俺は一体どんな言葉を父にかけるだろう。
    どんな顔で父を見つめるのだろう。



    (…今夜は徹夜になるかもな)
    息を吐いて隣を振り返ると、そこにはいつの間にかも抜けの空になったスペースがあった。
    一体何時からそうだったのかアルフィンがいない。
    (…帰ったのか)
    そう思ってゆっくりと薄暗い廊下に頭を廻らせる。
    ぼんやりした目で見る廊下の先には、どこか間延びしたような、懐かしいような空気が残っている。
    どこか温かくて寂しくて、…それでいて、どこか照れくさい−−−そんな空気だ。
    もう父が手術室に入った時に感じたような黴臭く薄暗い冷気は既になく、外の嵐とは正反対のゆったりして優しい空気が、まるで置き忘られたような佇まいで流れていた。
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■2752 / inTopicNo.8)  Re[7]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/27(Wed) 19:54:37)
    ゆっくりと天井を見上げながら、俺は疲れで痺れてしまった頭でアルフィンを想う。
    ピザンを飛び出し<ミネルバ>に密航してきて、押しかけクラッシャーになってから、そろそろ7年目に差しかかろうとしている。
    意外と言うか、…妙に納得と言うか。
    正直ここまでやるとは思ってなかったが、彼女が傍にいてくれることをこんなにありがたいと思ったこともない。
    −−−なんてハチャメチャな王女様だと思ったのが7年前。
    感情のまま泣いたり喚いたりという単純さに、見ているこちらが疲れそうになったこともある。
    だが、度々の怪我に泣き自らのミスによる失敗に悔し涙を流しながらも、アルフィンは決してピザンに帰ろうとはしなかった。いつも一直線でいつも真っ向勝負の彼女は、勝気なようでいて時に繊細で、そして柔軟でしなやかで、それでいて、とても−−−強かった。

    クラッシャー生活の半分近くを彼女と過ごして、今改めて思う。
    今、こんな時でさえ、傍らにいてくれる彼女だけには唯一自然に振舞うことが出来る。
    怒りに燃えている時も、悔しさで眠れない時も、仕事の達成感で体中が満ち溢れている時も、アルフィンの前だけでは素直な心のままに振舞えることを、俺はとっくの昔に気が付いていた。
    (アルフィンだけが、俺の暗い森ン中をなんてことなく突っ切って来ちまうな。…いつもいつも)
    不思議な気持ちで、荒れる外の風景を眺めながら思う。
    彼女は俺が深い森に閉じ込めた箱の蓋を難なく通り抜けて、まるで知恵の輪を外すようにその鍵を外しては、いつの間にか傍らで微笑んでいる。とても当たり前な顔をして。
    まるで雨が空から降ってきて地面にゆっくり吸い込まれていくような、とても自然な有り様で。


    −−−そう。
    多分、本当に大事なことはどこまでもシンプルだ。
    大事な気持ちはいつもひとつ。
    余計な意地とか、負け惜しみとか、つまらない嫉妬とか、面倒な気持ちは必要ない。
    一番大切なのは、そんな余計なものを全部こそげ落とした後の気持ちだけ。


    アルフィンはいつもそれを教えてくれる。
    一番大切なものは何か。
    …ほんとうに大事なものは何だったのか。



    そんなことを考えていると、ふと仄暗い廊下の向こうから近づいてくる微かなブーツの音に気が付いた。
    音の方に視線を流すと、アルフィンの金色の髪が薄暗い中にキラキラと輝きながら揺れているのが見える。は、は、と小さく白い息を吐きながら、アルフィンがブランケットを腕いっぱいに抱えて、片方の手元を気にしつつ駆け寄ってくるのが分かった。
    俺は思わず椅子から立ち上がり、彼女の元へ歩み寄る。
    「…アルフィン!」
    「ジョウ!」
    俺に気付き笑みを浮かべて立ち止まるアルフィンに、知らず安堵したような声を出して俺は呟いた。
    「帰ったんじゃなかったのか…」
    「え?…やあだ。温かい飲み物を買ってくるって言ったじゃない。食堂に行って二人分のスープを買ってきたのよ。さすがにこんな寒々しいところ一晩明かすのは辛いでしょ?」
    ほら、と彼女が差し出す方を見てみれば、ブランケットを抱えた腕の下に、ブラブラと揺れるテイクアウト用ビニールに入ったスープが二つ。
    ああ、コレを買ってきたから、やたらと下の方を気にしていたのかと納得し、それじゃあと受け取ろうと手を伸ばしかける。

    −−−が。
    「…ちょっと待て。二人分?!」
    我に返って声を上げた。
    「おい。まさか、君もここに泊まる気か?!」
    アルフィンは、俺の台詞など端から気にする様子もなく、至極当然だという顔をしてこちらを見返していた。しかしやがて「ジョウ。ちょっと悪いけど、もう少しそっちにずれてくれない?」と、こちらにその細い腰を無遠慮に押し付けてくる。アルフィンの腰が俺の太股の辺りに当たり、俺は思わず長椅子の端に腰を落とすことになった。
    「こっちにずれる…。いや、ちょっと待てって。…アルフィン、あのな…」
    「いいからいいから。まずはコレ持ってそこに座って。熱いから気をつけてね」
    ぐいぐいとこちらに自分の身体を摺り寄せてきては、アルフィンは俺を椅子のさらに向こう側に押しやるように誘導していく。結局、なんだかんだと言いながら、俺はアルフィンが差し出してきたスープを受け取り、さらには彼女が抱えてきたブランケットによって、足の先から腰の辺りまでをすっぽりと覆われてしまった。
    なんでこうなると思いつつ、こめかみを軽く押さえ「…アルフィン。さっき俺が言ったこと聞いてたか?」と呟く。
    「なぁに?」
    「今夜は帰った方がいい。…明日も早いんだし、君まで無理することないって言っただろ」
    「…ああ。”君には関係ない”って言ってたくだりね。いつもながら、あたしのガラスのハートがえぐられそうになったけど、多分悪気はないんだと判断してスルーしたから大丈夫。いいのよ、別に気にしないで」
    「…はぁ?!」
    俺は何を言われたのか分からず、間延びした返事をするしかない。
    するとアルフィンはいささか苦笑して、肩から息を吐くような風情でこう言った。
    「…ほんとつくづく、あたしジョウと議長って、そっくりだと思うの」
    一瞬何を言われているのか理解できず、俺は呆けたように口を開ける。
    が、その言葉が脳内に到達した瞬間、俺は俄然納得がいかないとばかりに言い返した。
    「………、どこが!」
    アルフィンはそんな俺に首を振りながら、両手を仰ぐ。
    「…だから。さっきみたいに、ジョウなりに気を遣ってしゃべってる一言なんだろうけど、相手に致命傷を与えかねない台詞を言っちゃったりすることとかが。おまけにそれが、どうしようもないくらいに的外れなこととかがよ。…自覚ないでしょ」
    「………、」
    「相手が大事だからこそ言っちゃうんだろうけど、実際にそれを聞いた相手がどんな気持ちになるかなんて、これっぽっちも想像してないし」
    何気に痛いところを突かれて、俺は思わず黙り込む。
    俺達親子はそんなことの繰り返しで、くだらないメリーゴーラウンドみたいな堂々巡りを続けてきたのだろうか。
    …もう十何年も。
    むっつりと黙り込んだ俺に向かって、アルフィンは笑って言葉を紡ぐ。
    「…つまりは水臭いってことだけどね。ジョウも議長も」

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■2753 / inTopicNo.9)  Re[8]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/28(Thu) 11:28:52)
    ゆっくりとこちらに身体を寄せてブランケットを胸の辺りまで引き上げながら、アルフィンは買ってきたスープに口をつけた。スープの湯気が彼女の睫に当たり、白い息と交じり合う。
    「だいたいね。クラッシャーのチームメイトは家族同然でしょ?あの閉ざされた宇宙空間で命を懸ける仕事をしててさ。いいとこも悪いとこも全部さらけ出す生活しているあたしに向かって、今更、家族じゃないから、なんて他人行儀な気を遣うのはナシよ」
    子供に言い聞かせるような口調のアルフィンに、俺は言い訳がましく口を開こうとした。
    「………、だからそれは、」
    いらぬ気遣いをさせたくないからで。
    だが、そう言おうとした俺の頬にアルフィンの撫でるようなパンチがぽすりと入る。
    「…いて、」
    「ホラ!あたしはともかくタロスとリッキーにまで気を遣ってるんだもの。そりゃあ二人ともまだ仕事が残ってたから今夜は泣く泣く帰ったけど、絶対あの二人だってここに残りたかったはずよ。二人だってすごく心配してたんだから」
    「………」
    困惑する顔で見返す俺に、アルフィンは優しく腕を絡めてくる。
    俺の顔を見て微かに笑い返した後、その頭を俺の肩にコツンと乗せてはゆっくりと話し続けた。
    「いい?こーいう時はね、余計な気を遣うことなんてないの。そういう余計な気遣いはいらない。心細かったら心細いって言えばいいし、心配なら心配だって言えばいいの。だってお互い様なんだもの。あたしたち、誰が同じことになっても」
    そうでしょ?
    柔らかな声で問いかけてくるアルフィンに、溜まっていたわだかまりが解かれていくのを感じながら、俺は彼女の預けてくる重みを肩で受けた。アルフィンが小さく動く度に、彼女の温かさがこちらに伝わって俺の身体を弛緩させる。
    …実際問題、誰の家族が同じ状況になったとして、今回のようにずっと傍についていてやれるかと言えばそれは分からない。
    今回はたまたま次の仕事への合間があったから出来たことであって、俺達の世界でこういうラッキーな状況になることはほとんど奇跡に近い。
    クライアントを優先する状況であれば間違いなく俺はそちらを優先するだろう。
    クラッシャーの仕事とはそういうものだ。



    だが、俺は何も言わずアルフィンの言葉を聞いていた。
    今はアルフィンの心遣いが素直に嬉しい。
    「それに、議長は帰ってくるわ。多分、きっと」
    しばしの沈黙の後、アルフィンは小さく呟いた。
    どこかを睨むようにして真っ直ぐに前を向き、やけに確信めいた言葉で語り続ける。
    「…そいつは女の勘ってやつか…?」
    「…まぁね。さっき、二人はそっくりだって言ったでしょ?ジョウだってあたしが”もうダメだ”って思った時でも、何度も何度も帰ってきたもの。絶望的な状況の中からでも、ちゃんとあたし達の元に戻ってきてくれた。絶対に諦めなかった。絶対に投げ出さなかった。…だから、議長もきっと大丈夫よ。なんてったって、ジョウのお父さんなんだから」
    自信に満ちた瞳で、そう断言するアルフィンに俺は低く笑った。
    そしてもう諦めたというように大きく俯き、次に顔を上げるとアルフィンに寄りかかるようにしてもう一度ゆっくりと椅子に座り直した。
    そのままブランケットの襞を胸元まで上げて、アルフィンの持ってきたスープを一口飲む。喉を落ちていくスープの温かさと共に、アルフィンのあたたかさが身に染みた。


    …全く持って敵わない。
    どんなに言い訳をしても、どんなに虚勢を張っても、彼女だけには敵わない。
    そう思い知らされて苦笑う。


    −−−が、不意に思い当たった。


    俺は家族だからこそ、色々な面倒な過去や思い出、たくさんの傷から目を背けるやり方しか出来ないと思っていた。ずっと長い間、たくさんのわだかまりから目を瞑り、あえて見ない振りをする方法しか知らなかった。
    …そんな風にしか出来なかったのだ。
    でも。
    家族だから、身内だから、大切だから−−−そう言いながらも、俺は大事なものから目を背けることで実は自分自身だけを守っていたのではないのか。大事なものを守っている振りをして、実は自分が傷つくことをひたすらに恐れていたのではないのか。


    −−−アルフィンは。
    どんなに辛いことがあったとしても、俺がそうしたように秘密の森に逃げ込もうとはしなかった。
    戸惑い、困惑し泣き叫びながらも、理不尽な出来事や障害から何とか自分の生きる糧を得ようと足掻いていた。
    例え、俺と同じところで不快な出来事を見ていたとしても、それを戸惑いながらも別の形に見ようとする勇気が彼女にはあって。その出来事を受け止めて、その正体をしっかりと捉えようとする力によって、彼女の生き方は眩しいくらいに真っ直ぐなのではないのか。

    …ああ、そうか。

    すとんと得心がいって、俺は悟る。
    それがきっと彼女の持つ強さなのだと思う。
    それが彼女の力なのだ。
    大事なものから目を背けない。大事なものから逃げない真の強さ。


    「…なるほどな」
    端から敵うわけがないぜ、と笑いながら口の中で呟く俺に、アルフィンはさっき自分の話した言葉に対する返事だと思ったのか、「そうよ」と言葉を返してきた。
    そして、ブランケットの下で俺の左手に指を絡めてはこう言う。
    「議長は絶対に帰ってくる。だからジョウは今度こそは絶対!忘れないうちに伝えなきゃダメなの」
    俺は眩しいものを見るような顔でアルフィンに言葉を返した。
    「…なにを」
    「なにをって!本当はお父さんが好きだったとか、憧れてたとか…、そーいうことでしょ」
    「…言えるか。そんなこっぱずかしいこと」
    「もー!また意地を張る!そんなことだから、あなた達はいっつもめんどくさいことになってるのよ」
    「うるせえな」
    「ちゃんと言わないと、また分かんなくなっちゃうわよ。大事なものがなんなのか」
    もーほんとに世話の焼ける、とかなんとか呟くアルフィンの声を聞きながら、俺はアルフィンの手を強く握り返した。


    祈りを込めて。
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■2754 / inTopicNo.10)  Re[9]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/01/29(Fri) 17:57:54)
    …そうだな。
    一度言ってみるのも悪くない。
    ずっと、あなたは憧れだったのだと。
    あなたのようになりたくてクラッシャーになったのだと。
    ずっと長いこと顔を合わせることも話すことすらなかったが、あなたの背中だけをいつも追いかけていたのだと。



    −−−あの遠い日。
    一緒に虹を見た時のように、あなたと同じ目線で、自分の目の前で起こる冒険を見てみたかった。親子二人きりでゆっくりと腹を割って、たわいもないことを話してみたかったのだ。
    もうずっと、長い間。



    窓を打ち始めた雨のラインを目で追った後、手元に持っていたスープの残りを飲み干すと、俺はアルフィンの重みを肩で感じながら空になったカップを足元に置いた。気付けばアルフィンは軽い寝息を立てて、肩に寄りかかったまま眠りの国へと旅立っていた。俺はアルフィンを起こさぬよう、ゆっくりとブランケットを胸元に掛け直し瞳を閉じる。
    目を閉じれば瞼の奥に蘇るのは、今でもあの嫌みったらしい父でしかない。
    だが、暗くて深い森から零れ出た光を背に受けてこちらを無愛想に振り返る父を、俺は驚くほど穏やかな気持ちで見つめ返すことが出来た。
    俺は空想の中で佇む父に、ゆっくりと静かに声をかける。
    (…あんたはほんとに分かり難いんだよ、どんな時でも)
    アルフィンの温かさによって、溜まっていた毒が中和されたような気分のまま、俺はぼんやりと語り続ける。
    (散々、人を小馬鹿にしてみたり、わざと怒らせようとしてみたり)
    (ずっと高いところから俺を見下ろして、文句だけは煩くて。おまけに今度はこんな状態のままさっさと逝っちまおうとしてる)
    表情を変えずにこちらを見返す父に、俺は思わず苦笑う。

    −−−ああ、こんな時でさえ俺は−−−。

    つくづく素直じゃないという、さっきのアルフィンの言葉を思い出し、俺は自嘲めいた笑みを唇の端に乗せた。
    そして滲む緑に囲まれながら、俺はまた父に話し続ける。
    (俺は、ずっとあなたの存在が邪魔だったけど)
    (あなたの言葉は何時だって腹立たしくて、癪に障ってしょうがなかったけれど)
    一度俯き息を吸い込むと、俺は覚悟を決めたように真っ直ぐに父を捉えた。
    (でも、)
    それは何時だって、迷った俺を前に押し出すための言葉と行動だったと今では分かる。
    もはやそれは確信だった。
    確かに子供だった俺にとって、優しい言葉や慰めは時には有難かったかもしれない。だが、そんな分かりやすく差し出される手に易々と寄りかかろうとする男が、この厳しいクラッシャーの世界で銀河一の称号を得られるようになるとは到底思えない。第一、俺のような男が「はいそうですか」と素直に父の助言を受け入れたかどうかも怪しいもので。
    あの冷たい顔の父を散々足蹴にしてきたからこそ、俺はここにこうして立つことが出来ているのだ。間違いなく。


    …多分、今なら。
    また再び二人で顔を合わせ、互いの腹を探り合うような素振りでいても、今までのように身の置き所のないような苛立たしさを感じることはないだろう。きっと今までと同じように二人で黙りこくって何も話さなかったとしても、その空気はきっと以前に感じたような不快なものではないはずだ。
    きっとそれは。
    −−−どこにでもある、ありふれた親子の光景。


    「…ん、」
    俺の肩で小さく身じろぎをしてアルフィンが寝返りを打つ。
    俺は瞳を開いてアルフィンを振り返り、そのほつれた髪を彼女の愛らしい耳にかけてやった。胸元から滑り落ちたブランケットでもう一度彼女の胸元を覆う。
    静かな息を立てて眠り続けるアルフィンに、俺は小さく笑った。
    アルフィンの笑顔と言葉は、怖気づく俺に「逃げるな」と力をくれる。
    誤魔化さなくても馬鹿な言い訳をしなくても済むきっかけを作ってくれる。
    だからこそ俺はこうやって静かな気持ちで親父を待つことが出来ているのだ。


    …アルフィン。
    「…俺は君にも言わなきゃならないことがあるよな」
    その寝顔を見ながら、俺はそっと口の中で呟いた。
    −−−ずっと長い間、うやむやにしていたこと。
    ずっと誤魔化して先延ばしをするだけで、自分から何一つ伝えようとしてこなかった俺の−−−君へのほんとうの想い。
    分かっているはずだと、いつでも言えることだと、何も求めてこない君に甘えてここまできてしまった。
    (すまん)
    口の中で小さく呟いた。
    いつも甘えてばかりですまない。
    いつまでも卑怯な男ですまなかった。
    ずっと勇気がなくて。
    ずっと君と仕事の間で迷ってしまいそうな自分が怖かった。


    でも。


    もし、君の言う通りに父がまたこちらの世界に戻ってきたら。
    父に思いっきり言いたかったことをぶちまけたら。
    きっと君にも伝える。
    この想いを。
    この気持ちを。


    窓を流れ落ちる雨音を聞きながら、俺はアルフィンの手を握り返す。
    (そうだ、君の言う通り)
    (もう大事なものを間違えない)
    俺は静かな決意を持ってアルフィンに身体を寄せては瞳を閉じた。




    …だから、どうか。
    もし、神様ってやつがこの世にいるのなら。
    もし、俺みたいな馬鹿な男にもう一度だけチャンスをくれてやろうと思うなら。



    −−−あのひねくれ親父を、もう一度俺の目の前に−−−。


    外の雨音がいつの間にか意識の外に消えていく。
    空想の中で、父が煌めく碧に紛れてその姿が霞んで見えた。
    だが不思議なことに俺には父が笑っているのが分かる。あの皮肉な笑みを浮かべて父はこちらを見ている。
    (…親父)
    ふと父が差し出してきた腕に俺を右腕を伸ばそうとしたが、とろとろと誘うような温かさと眠気に絡め取られて俺の腕は体の横にぶら下がったまま動かなかった。

    煌めく緑。
    揺れる碧。
    零れる光。

    明るくて温かい光に囲まれながら、俺はゆっくりと空想の中で瞳を閉じる。

    絶対に眠れるはずがないと思っていたその嵐の夜、俺はいつの間にか深い眠りの淵に落ちていった。そして、嵐が去った後の眩しい朝日と、ナースの俺を呼ぶ声によって現実に引き戻されるまで、温かいぬくもりに包まれながら夢を見ることなく眠り続けたのだった。



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■2755 / inTopicNo.11)  Re[10]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/02/01(Mon) 17:35:44)
    5.繋がる掌


    キラキラと溢れるほどの光に輝く白い廊下を俺は走る。
    病院の廊下は窓の外から差し込む光が乱反射して、行き交う人々も皆眩しそうに眼を細めている。


    朝一でアラミスの宇宙港に降り立ってからと言うもの、一人エアカーを馬鹿みたいに飛ばしては、駐車もそこそこに病院の入り口へと駆け込んだ。受付カウンターでは超スピードで部屋を確認し、一箇所だけ寄り道をしてからエレベーターに乗ろうと「UP」のボタンを押す。焦れる思いでエレベーターが下りてくるのを待っていたが、そうしているうちにただ待っているのがもどかしくなり、すぐ横にある階段を見つけると何も考えないまま駆け上がった。
    手すりをバネのようにして階段を上がり、目標の階にたどり着くとまた走る。
    走って走って。
    廊下を歩く人々の迷惑そうな顔に、ふと我に返り足の勢いを若干緩めかけたが、行くべき部屋が近いことが分かるとまた走った。
    「…ちょっと!ここは病院ですよ!廊下は走らずに歩いてください!」
    あの角を曲がればというところで鬼のような形相をしたナースとすれ違い、思いっきり注意をされた。
    しかし、「分かった!すまん!」とだけ答えて、俺はなおも走り続ける。
    それは無理な話だ。
    …今更、止まれるわけがない。



    ずっと走ってきた。
    あの時のように。
    父に虹を見せたいがために、息せき切って走ったあの日のように。
    仕事を終えてアラミス本部にレポートをさっさと送りつけて、からかいの言葉を寄せてくるタロスとリッキーも適当にあしらってここまで来た。
    (…この俺が。嘘みたいだな)
    苦笑しながらも、俺は蹴り出す足を止められない。
    他の患者の手前、少しばかり歩調を緩めるものの逸る気持ちで部屋を探す。
    あの部屋か、この部屋か。
    くそ、どうして病院の部屋と言うのは、どれもこれも似たようなもんばかりなんだ。
    癇癪を起こしそうな心を何とか押し込めて、やっとのことで目標の部屋を見つけては厳粛な気持ちで扉の前に立つ。


    目の前の静かに佇む扉−−−。
    ずっと俺を待っていたかのような静かな佇まいに、俺は一度、深呼吸をした。そして、祈るような思いで扉に頭を預けては、ゆっくりと瞳を閉じる。


    −−−世界中のすべてのものに、ありったけの感謝を。
    そうして、この扉の向こうで待っていてくれるはずの君にありったけの尊敬をーーー。

    …そして。
    俺はその重い扉をノックして、君の声が聞こえてくる部屋の扉をゆっくりと開けた。




    −−−開かれた部屋の先には、目が眩まんばかりの光が溢れていた。
    温かい春の日差しが部屋中に反射してはくるくると踊っている。
    扉の丁度正面にある開け放たれた窓からは、どこまでも続いている青い空と、どこまでも広がる緑の草原が見え、空の上にはさえずるヒバリの声が聞こえた。
    少しだけ開けられた窓からは、アラミスの春特有の暖かく花の香りを含んだ風が涼やかにカーテンを揺らす。
    そして、その大きな窓の前には。
    生命の象徴のような光り輝く太陽を背に受けたアルフィンが、その大きな碧い瞳をさらに見開きながらこちらを見ていた。
    薄いピンクのパジャマの上に白いカーディガンを引っ掛けて、ベッドの上で白いシーツに包まれている。長い金髪を顔の横で軽く束ねて化粧などは全くしていなかったが、その顔は神々しいまでに美しかった。
    アルフィンは俺の顔をしばらく心底驚いたような顔で見つめていたが、やがて花が綻ぶような笑顔を浮かべては「ジョウ」と言った。煌めく笑顔で両手を挙げ、俺に傍に来るように手招きする。
    俺は久し振りに見るアルフィンにすっかり意識を奪われたものの、俺を呼ぶ声に我に返り、吸い寄せられるようにして「…アルフィン」と言いながら傍らに歩み寄り、その細い体を抱きしめた。


    久し振りに触れるアルフィンの肌。
    久し振りに味わう君の全て。
    アルフィンの髪、額、頬に。
    俺は次々と啄ばむような口付けを落とす。
    そして一番深い口付けを、その蕩けそうなほど柔らかくて温かい唇に。
    しばらく会えなかった辛い時間の隙間を埋めるように、俺達は互いに深く口付けを交し合った。お互いの命を、まるで交換し合うかのように。


    ひとしきり抱き合って互いが落ち着きを取り戻し、ようやく一心地付いたと思えるようになった頃。
    俺の胸に手を当てて、ゆっくりと俺から身体を離したアルフィンは
    「…どうしたの?帰るのは明日だって言ってなかった?」
    とそのくるくる瞬く碧眼を輝かせては問いかけてきた。
    窓の外からはそよそよと心地いい風が頬を擽り、咲き乱れている春の花の香りを寄せてくる。
    俺は目の前で発せられるアルフィンの声が耳にくすぐったくて
    「…なんだよ。久し振りに会えたってのに嬉しくないのか?」
    とおどけて言った。
    アルフィンは、ばかね、そうじゃないわよ、と言い返したが、すぐに大真面目な顔になり「…もしかして、また謹慎にでもなった?」などと言ったので、俺は一瞬、呆けてから笑い出し「ばぁか!」とその額を小突いてやった。二人の笑い声が部屋に響き渡り、差し込む春の日差しと反射するかのようにキラキラと舞った。
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■2756 / inTopicNo.12)  Re[11]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/02/02(Tue) 21:09:19)
    ここに来たのは、実に2年ぶりだ。
    −−−前にここに来たのは、親父が心臓の病で生死の境を彷徨った時。
    あの時には冷たく暗い病室の壁をまるで牢獄のように感じていたが、今はこの世の何もかもが、あの時とは正反対の場所に存在しているように見える。目の前で白い壁に降り注ぐ光の群れは、まるで世界そのものを祝福しているように楽しげで温かく降り注ぎ、目にするもの、耳にするもの全てが自分達を優しく包み込んでくれているような気がして、俺はその眩しさに目を細めた。
    そして、自分の腕の中にじっと包み込まれたままのアルフィンをもう一度上向かせ、深くその唇に口付けを落とす。角度を変えては舌を絡めた。何度も何度も。
    「………、ジョウ」
    苦しそうに息をするアルフィンに、俺は口から零れる吐息に想いを乗せるような気持ちで呟いた。
    「…ありがとう、アルフィン。………ほんとうに」
    「………」
    「本当に、何もかもが君のお蔭だ」
    「………」
    「言葉で言い尽くせないくらい、…君に感謝してる」
    ほんとうだ。
    そう呟く俺に、アルフィンは甘い吐息を寄せながら夢見るように呟いた。
    「…分かった。ジョウったら、あの子に会ってきたのね?」
    そして、ようやく合点がいったとばかりに微笑んで、俺の背中をそっと抱き寄せては、その掌で俺の体を包み込んだ。その仕草がまるで俺を宥めるようで、俺を優しくあやすようで、不覚にも泣きそうなほどに切ない気持ちになった俺は、それを誤魔化すようにさらに強くアルフィンを抱き寄せた。




    −−−そう。
    俺はたった今、会ってきた。
    昨日の夜、この世に生まれ出たばかりの命に。
    俺とアルフィンの二人の命から生まれた、もう一つの新しい命に。
    この世で唯一無二の、
    かけがえのない、
    −−−俺の、息子に。


    …小さな手足。
    まだ生え揃わない産毛の髪。
    まだ静かに閉じられたままの瞳。
    少しだけ開いた唇。
    そして。
    ちいさな、とても小さな−−−しっかりと握られた掌−−−。
    まだ一人では何も出来ないはずの小さな命は、通されたベビールームのベッドの上で静かな寝息を立てて眠っていた。あいつが寝返りを打とうとその小さな頭を動かす度、あいつが小さな欠伸をする度に、俺の体はどうしようもないほどの愛しさで震える。そうして、どこまでも溢れることを止めない愛しさが体全体を支配して、あいつの誕生が俺の人生をこれまでとは違った意味を持つものに一瞬で変えてしまったことを実感した。


    目の前で眠り続けるあいつは。
    まるで、安心しきった顔でそこにいた。
    恐れるものなど何もない、そんな顔をしたままで。



    −−−親になるというのはこういうことなのかと俺は思う。

    目の前で眠るあいつを無条件で守りたいと思う心。
    今はしっかりと握られたままのあいつの掌が、将来一体何を掴むのだろうかと逸る心。
    まだあいつは自分では何もできないただの赤ん坊だというのに、俺の思いはもう遥か未来の空へと飛んでいく。
    あいつが遠い未来に掴み取るものは一体なんなのか。
    何を考え、何を掴み、何を手放さなければなくなるのか、それを見守り、助けてやりたいと思う。
    無条件に湧き上がるそんな思いが後から後から溢れてきて、俺は自然と父親の顔になる。



    あの日−−−アルフィンにやさしく背中を押された日−−−あの長時間の手術に辛くも勝利して戻った父を見た時に、俺達親子の間に横たわっていた長年のわだかまりがゆっくりと氷解していく予感を思ったものだが、自分が同じ立場に立った今、俺が生まれた時に父もきっとこうだったのだと素直に思える自分が嬉しかった。同じ立場になっただけで、疑心暗鬼だった父の思いが分かりかけたのも照れくさい。
    そしてまた、そんな風に思えるようになった自分がどこか誇らしくもあり。
    だが。
    長年の間、ジクジクと膿むように身体の奥底に疼いていた心の傷を、アルフィンの存在が縫い合わせてくれたとはいえ、実際に会って父の本心を確かめたわけでもなく、心もとない気分は完全に拭い去られることはなかった。あの日の夜、次の仕事に急かされるように慌ただしくアラミスを後にして以来、父はそのままリハビリ生活に入ってしまったし、自分は文字通り嵐のように舞い込む仕事に忙殺されていた。仕事の依頼をアラミスから受ける時に、ついでのように耳にする父の近況のみが自分と父を繋ぐ最後の砦のようだった。
    自分に連絡を入れるついでに実家にも連絡を入れて話をすればいいのに、とハイパーウェーブで話すアルフィンの言葉に、確かにそうだとは思うものの、いざ話をしようとすれば何をきっかけに切り出せばいいのかも分からなくなり、自然とアルフィンの方に気持ちが向いてしまう。
    なにより、会うたびに父を罵倒し父に叫んでいた自分が、どの面下げて会いに行けばいいのかと、そんな思いに絡め取られてどうにも足が竦んでしまうのだった。


    すると、そんな俺の心を読んだかのようなアルフィンが、俺を窺うようにして言う。
    「…議長にはまだ会ってない?」
    どこか気遣っているようなアルフィンの視線に、いささか気まずい振りで「………ああ」とだけ答える。
    アルフィンはやっぱりね、と言いたげな顔で鼻からふっと息を出して肩を竦めた。
    「宇宙港からここに真っ直ぐ来たの?」
    「…ああ。ほんとは昨日来るつもりで仕事を早めに切り上げたかったんだが、クライアントがどうしても首を縦に振らなくてな。結局は依頼どおりの日程で上がりになった。…うまくいけば、君の出産に間に合うかと思ってたんだが。…悪かったな、間に合わなくて」
    「そんなことはいいんだってば。クラッシャーの仕事なんてそんな甘いもんじゃあないでしょう」
    「…そりゃそうだが。…なんだよ、やけに物分りがよくなったな」
    「そりゃあ、あたしだって特Aチームの端くれだもの。子育てがひと段落したらちゃんと復帰するから、それまであたしの席空けといてよ」
    「…マジか」
    呆れ顔で言い返す俺に、当たり前でしょ、と言って胸を張るアルフィンに俺は笑った。
    アルフィンに気付かれないように小さな溜息を洩らしながら。

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■2757 / inTopicNo.13)  Re[12]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/02/03(Wed) 11:57:23)
    すると、おもむろにアルフィンがベッドサイドに置いてあったフォトフレームをこちらに差し出してきた。
    訝しがる俺に楽しそうな笑いを洩らしながら、それを見るように促している。
    「…なんだ?」
    どこか尋常じゃないアルフィンの笑いに嫌な予感を感じつつ、俺は彼女が指し示すものに恐る恐る目をやった。そして恐らく彼女の思惑通りに、思いっきり口を開ける羽目になる。


    そこには。
    生まれたばかりの俺を抱いて優しく微笑むお袋と、真っ白な総レースのフリルの付いたベビーウエアを着せられた、どこかを睨むように、挑みかかるように眉を寄せた赤ん坊が、仲良く同じフレームの中に納まっている姿があった。
    「…おい!」
    冗談だろ、という勢いでそれを取り上げようとしたが、大笑いをしていたアルフィンがすかさず胸の間にそれを隠してしまい、俺は堪らずベッドのクッションに突っ伏した。


    あの野郎…。
    …クソ親父!
    俺は体が火照ってくるのを感じながら心の中で毒を吐く。
    俺がいない間に一体何をやってやがる、ばかやろう!
    思いっきり舌打ちをしたい気分で、俺は唸りながら頭を掻いた。
    そんな俺を見ながらくすくす笑っていたアルフィンは、突っ伏したまま起き上がろうとしない俺に静かに語りかけてくる。


    「…昨日、あたしが陣痛でウンウン唸ってた時に議長が持って来てくれたの。多分、ジョウはその時に間に合わないだろうから、お守り代わりにこれを傍に置いておけって」
    「………」
    「見て。今はフレームに入ってるから綺麗に見えるけど、すごくボロボロなのよ、この写真」
    「………」
    「現役で飛び回ってた時は、この写真をずっとジャケットのファスナーの中に入れて持ってたんですって。他に写真がなかったからって」
    「………」
    「現役を引退してからは、ずっとベッドサイドに置いて眺めてたんだって」
    「………」
    「…大事にしてたのね。凄く、凄く年季が入ってるみたい」
    写真を撫でながら、アルフィンはその厳つい顔の赤ん坊を愛おしそうに眺めている。
    「………」
    「ねえ。赤ちゃんて、生まれるときには掌をしっかり握ってお母さんの中から出てくるもんだってこと、知ってた?」
    「………」
    「赤ちゃんはね、生まれる時は手の中に希望とか夢とか、そういうあったかいものをたくさん持って生まれてくるんだって。でも、成長していくうちに掌はいつの間にか開いてしまって、そういったものをどこか遠くに落としちゃうの。…だから、人間はそれをもう一度掴もうとして一生懸命生きていくんだって」
    「………」
    「でも、それは親が子供に『ほら』って差し出してやるんじゃ全然意味がないんだって。もともと自分が持っていた、自分の力で掴めるはずだったものを周りが拾い渡してやるのでは意味がないの」
    「………」
    「親にできることは、それを見守ってやることなんだって。じれったくても辛くても、…例え憎まれても」
    「………」
    「議長がね。君も親になるのだから、そうやって産まれてくる子供の姿をしっかり見守る覚悟を持たなきゃならないって、そう言ってあたしの手をずっと握っててくれたの」
    「………」
    「…だから、全然寂しくなかった。あなたが傍にいなくても、この写真のあなたが傍にいてくれたし、議長も傍にいてくれたから」
    「………」
    「だから全然平気だったのよ」


    俺は黙ったまま、あの夜に見た夢のことを思い出していた。
    瞬く碧の森の中で、俺に手を差し伸べてきた父。
    あの時は、疲れに紛れて痺れたようになっていた腕を父に返すことは出来なかった。


    でも。

    でも、きっと今なら。



    のろのろとベッドから体を起こして、苦笑したまま髪を掻き上げる俺にアルフィンが笑いながら問うてきた。
    「ねえ。ジョウはあの子はどっちに似ると思う?」
    「…さあな。どっちに似るとしても、どうしようもないくらいの鉄砲玉になるのは間違いないだろ」
    「じゃあジョウだ」
    「………よく言うぜ。…本気で言ってんのかよ?」
    「いつか、クラッシャーになりたいって言い出すかもよ。どうする?」
    「…さあてな。でも、それは」


    それは、あいつが決めることだ。

    親父が言うように、あいつの人生はあいつのもの。
    人生の目標とは、誰かにこうするべきだと指し示してもらうものではなく、自分自身の力で掴み取るものだ。



    俺は頬杖を付きながら窓から入ってくる春風に身を晒した。
    窓の外に広がるアラミスの草原は、これから芽吹く生命の光を眩しいくらいに放っている。俺はそんな風景を見ながら、親父に感じていた迷いが今度こそ綺麗さっぱりなくなっていくのを体全体で感じていた。



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■2758 / inTopicNo.14)  Re[13]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/02/04(Thu) 19:20:51)
    「…だから、兎に角それをこっちに寄越せって」
    「いやだってば。これはあの子のベッドに置いとくの!」
    「やめろ。どうせ置いとくんだったらそんなガキの頃のやつなんかじゃなくて、今の写真にしろ。それじゃ、あいつに俺の顔を覚えさせることが出来ないだろ」
    「やあよ。今の写真て資格更新の時に撮ってるやつでしょ。あんなしかめっ面のパパなんて笑うどころか泣き出しちゃうじゃない」
    「アホか!その写真のガキだって笑ってなんかないだろうが」
    「…いいじゃない。面白いから」
    あたしが、と言葉を付け足して笑い出すアルフィンに、俺は内心ふざけんなという睨みを送った。



    −−−俺達は今、あいつが静かに眠っているベビールームに向かって歩いている。
    あれからアルフィンの病室で、最近の仕事の状況やこれからアラミスで過ごす休暇の予定を話し終えた俺は、とりあえずリザーブしておいたホテルに戻ろうと座っていた椅子から腰を上げた。気が付けば、病院に来てから有に3時間は経過してしまっていた。いい加減<ミネルバ>で留守番をしているタロスとリッキーも待ちくたびれている頃のはずだと思い、アルフィンには明日、また皆で顔を見に来ると伝えて病室を出ようとした。しかし、すかさず「ジョウ、今帰るんだったら、あたしも授乳をしに行くから、途中まで一緒に行きましょ」というアルフィンに引き止められ、こうして馬鹿な掛け合いをしながら歩いているという訳だ。
    俺は笑いで憤死しそうになっているアルフィンに憮然とした顔で問いかけた。
    「…それ、ほんとに飾る気か」
    「飾る気よ。すごく可愛いじゃない」
    「…よく言う」
    「…やっぱり、昔から眉間に皺を寄せている変な子供だったのねえ、ジョウったら」
    「うるせえな」
    「これ見ると、あの子あなたにそっくりだと思うわ。ねえ、ジョウはどう思う?」
    「親子なんだから似ているのは当たり前」
    「こんな赤ちゃんの頃から眉間に皺だなんて…。ねえ、あの子あなたより強面の男の子になったらどうしよう。あ、でもあたしのDNAも入ってるから案外大丈夫か。いい具合に中和されてるかも」
    「…もう、どうとでも勝手に言いやがれ」
    ほとほと降参だというように肩を落とした俺に、ふふとアルフィンが楽しそうに腕を絡ませてきた。俺はアルフィンを優しく見下ろし、その腕をぽんぽんと叩いてやる。
    軽い言葉。
    笑いを誘う憎まれ口。
    ずっと求めていたやさしいものが、ここにある。


    不意に、あの角を曲がればもうあいつのいる部屋の入り口だというところで、
    「ねえ。あの議長の手術のあと、ずっと長いことあたしの気持ちに応えてくれなかったジョウが、どうして急に気持ちを伝えようと思ったの?」
    とアルフィンが真顔になって問いかけてきた。
    「本当は、ずっと言うつもりはなかったんでしょ?本当はずっと、黙ってるつもりだったんでしょ?」
    俺はアルフィンの顔を見つめ返しながら歩いていた足を止める。そして少し膝を曲げるようにして、その深い碧眼を下から覗き込んだ。そこにはどこか迷うような、おびえるような複雑な色の碧い瞳が頼りなさ気にこちらを見下ろしていて、俺はそんなアルフィンの髪を梳いて静かに微笑んだ。



    …あの日。
    父が生還したあの日に俺が見た空想は、長い間、俺が諦めようともがいていた親子の絆そのものだった。ずっと求めていながら、きっとそれは敵わないと諦めてしまっていた俺の中の暗い世界。俺はそこから抜け出したいと思いながら、それと同時にそこから出て行くことは恐ろしいとずっと怯えていた。
    だが。
    勝ち取れるかどうかも分からないもののために、故郷を飛び出しては全てを賭けているアルフィンの姿に、俺は自分を偽るのはもう止めるのだと、あの日密かに心に決めた。どうせ手に入るはずがないと諦めていた父との絆もそうだったが、まだ掴むことは許されないと思っていた君との関係もそうだった。まだ早い、まだ無理なんだと、とってつけたような理由で先延ばしにしていた君への答え。父との確執が心の重石になっていたことを除いても、のらりくらりとこの関係に決着をつけようとしなかったのは、もし君を手に入れたとしても、その後に面倒な障害が槍のように降ってくることが分かりきっていたからだ。アラミスからもピザンからも、−−−自分のチームの中からさえも、多くの困惑と混乱が降ってくることが予想できた。そして、その全てから君を守るためには気が遠くなるほどの説得とこれまで以上の緻密なチーム作りが必要で、それにはそれ以上の準備と対策が必要だということも分かりすぎるほど分かっていた。
    俺の人生の中でもこれ以上ない程の大きな賭けであり、今まで手がけたどの仕事よりも厳しい闘いだった。上手くいく保障など、銀河中のどこをさがしても、…どこになかった。


    でも、それでも。


    これからは自分を誤魔化すのではなく、諦めようとするのでもなく、物事を真正面から受け止めようとする君のように、真っ直ぐに生きようと心に誓った。
    きっと人は、生まれた時にはその手に握っていた大事なものを、その掌から取り落としたり、どこかへ置き忘れたり、誰かに盗まれてしまったりの繰り返しで生きていくのだ。その都度、人は傷ついて泣き、絶望し、この世界を呪う。どんなにそこから逃れようと思っても、そんな災難はどの人間にも同じように降ってくる。


    だからこそ。
    …諦めなければ。
    求めるものをきっとこの手で掴んで見せると希望を捨てさえしなければ。
    いつかきっと。

    いつかきっとと、そう思うことが出来たから。

    息を詰めてこちらを見下ろすアルフィンに、俺は不敵な笑みを浮かべて呟いた。
    「まぁ、何事も諦めなければ、いつかは何とかなるって事だろ。…多分」
    そうしてその頭をくしゃと撫で付けながら、俺は彼女の頭をポンと叩いた。
    「…なによ、それ」
    なんだかよく分からないという顔でこちらを見返すアルフィンに、俺はふふんと笑った。
    …分からなくて構わない。
    別に言葉でこの思いを伝える必要などない。
    人と人とが分かり合えることに、面倒な理屈も小難しい言葉も必要ないのだ。
    今、目の前で俺を見つめている君と、あたたかな温もりがあればそれで充分だ。
    そしてこの先加わるだろう、あの小さな存在がありさえすれば、それを守るためならば、俺はどこまでも強くなれる。

    俺の手は−−−。
    心の底から本当に望んでいたものを、ちゃんと自分の力で手に入れた。
    薄い笑いを浮かべて佇む俺に、未だ釈然としない様子で小首を傾げるアルフィンの手を、俺は力を込めて握り返した。
    そして、二人であいつの待つ部屋を目指し、ゆっくりと歩いていく。

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■2759 / inTopicNo.15)  Re[14]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/02/05(Fri) 13:40:48)
    目の前にあいつのいる部屋の扉が見え、ふとその場で歩みを止めた。僅かに開いていた扉から零れ出るあたたかな空気を感じて、まるで、あいつが早く来てくれと言っているようだと思った。俺はそんな空気に誘われるまま、どこかくすぐったいような気分でその扉をゆっくりと押し開く。


    −−−が、その時。
    「………ああ!」
    突然、アルフィンが大声を上げて俺の腕を引っ張るようにして引き止めた。
    部屋の扉を引っ張るように開けていた俺は、突然後ろから加わった力によって仰け反りそうになり、必死に足を踏ん張って体勢を取り戻す。思わず咳き込みそうになって、俺は噛み付くような声でアルフィンを振り返った。
    「…なんだ!一体」
    「…いっけなーい…。授乳の時にはガーゼを持ってくるようにってナースに言われてたのに、うっかり忘れてきちゃった…」
    口に手を当てて途方に暮れた顔をしたアルフィンが、俺を見上げている。
    「………。そんなの、中で借りればいいだろ」
    「ダメよ。ちゃんと持ってきてくださいねって今朝きつく言われてたんだもの。ジョウが予想外に早く帰ってきてくれたりしたもんだから、すっかり嬉しくなって忘れてた」
    「…そんな写真を喜んで持ってきたりするからだ」
    呆れと疲れが入り混じった声でぼやく俺に、アルフィンは肩を竦めて舌を出したが、俺の都合など全く気にする様子もなくこう言った。
    「あーあ。…しょうがない。ジョウ、悪いけどこれ持ってて。あたし今から取ってくる」
    手にしていたフォトフレームを無理やり俺の腕に押し込めて、アルフィンはスタスタと踵を返し、自分の部屋に戻ろうとする。
    「…はあ?!おいちょっと!戻るんだったらこれも持ってけ。こんなもん飾るなって言ってんだろ」
    「だーめ!今日はそれを飾るの!いいからつべこべ言わず、とっとと持ってって頂戴!すぐに来るから!先に行ってて!いいわね?分かった?」
    母親のような口調で畳み掛けるようにそういい残すと、アルフィンは昨日出産したばかりとは思えない程の速さで、目の前の廊下を駆け戻っていく。その余りの勢いの凄まじさに俺は唖然としながら「…なんなんだ、一体」と口の中で呟き、暫くその場に立ち尽くしていた。



    ふと我に返ると周りを歩いている人々の視線を一身に浴びていることに気が付いた。皆、どこかやんわりと細めた目で、静かに笑いながらこちらを見ている。
    俺は照れくささを隠すように、コホンと一つ咳払いをしてから踵を返し、出来るだけ何気ない振りでその部屋の前に歩み出す。部屋の前で既に少しだけ開いていた扉を押し開き、息を詰めるような思いで広い部屋の中を覗き込んだ。
    春の陽射しに照らされたその部屋にはキラキラと光の粒が舞い、眩しいくらいに輝いていた。この扉の向こう−−−大きなガラス窓に遮られているが、この扉の向こうであいつは静かに眠っている。
    俺はあいつが眠っている場所に足を進めようと右足を一歩踏み出そうとしたが、今が授乳の時間ということは、もしかしてアルフィンの他にも同じ目的で集まっている女性がいるのではということに思い当たり、ふと足を止めた。
    一瞬、このままここに留まるべきかどうかを逡巡する。
    一旦部屋の外に出てアルフィンが戻るのを待つべきかとも思ったが、先程すぐに戻ると言っていたアルフィンを無視することも憚られ、とりあえずは部屋の中を確認してから判断をつけることにした。あまりにも居た堪れない状況であれば、廊下に出てアルフィンを待てばいい。そう思い、慎重に少しずつ顔を覗かせるようにして廊下を進み、あいつが眠っている部屋が見渡せる窓を窺った。
    そこには生まれたばかりの小さな命が眠っている窓の明かりが、廊下に柔らかく零れている。ガラス窓の中から授乳を待つ女性達の声が聞こえるのではと冷や冷やしたが、そこからは物音一つ聞こえてはこない。−−−あまりの静寂が逆に不気味だった。
    俺はゆっくりとあいつが見えるガラス窓に続く廊下を歩き、その角を曲がる。
    そして、顔を覗き込ませるようにして中を窺い、そして−−−。
    −−−そのままこの場所に立ち尽くす羽目になった。




    …そこには。
    ただ一人だけの佇む人影が見えた。
    その男はダークグレーのスーツで身を包み、やや銀色がかった髪の、以前見た時よりも一層深くなった皺が刻まれた顔で、じっと窓の中を眺めている。
    遠い昔。
    アラミスの夕暮れの中で、七色の橋が架かった空の下で、狭い会議室の行き詰るような空気の中で、その静かな瞳をじっと俺に投げかけてきた男。強く、厳しく、常に冷静で、言葉を飾ることはせず、ただ真実だけをひたすらに俺に投げ落としてきた男。
    −−−その人は。
    病で一度死に掛けたとは思えない程に、ピンと伸ばされた背筋でそこに立ち、ガラス窓の内側で眠り続ける俺の息子を静かに見守っていた。


    (………、親父)
    俺は声もなくその光景を見つめる。
    父はガラス窓の中に眠る俺の息子を見つめたまま微動だにしない。片方の手にはあのアタッシュケースを持ち、もう片方の手をジャケットのポケットの縁に引っ掛けるようにして立っていた。

    昔、こういう父の姿をよく見ていたような気がする。
    こちらを厳しい顔で見据え、憤りに震える俺に向かって、平気な顔で容赦のない言葉を浴びせてきた。仕事でミスをした時も、資格更新で等級が上がった時でさえも、それではまだ足りないのだと言いたげな口調で俺を叱咤した父。
    目の前の父は、その時と全く同じ格好でそこに立っている。
    …だが。
    一つだけ違っているのは、そのまなざし。
    そのまなざしの優しさに俺の足は止まったまま動かなかった。
    父を知らぬ人間であれば、決して気付かないほどの淡い笑み。
    その穏やかで静かであたたかい笑みはまるで自分の思い出を辿っているかのようで、俺はそんな父を見ながらずっと昔に忘れてしまった記憶を思い出して、ただそこに佇んでいた。


    ふと思い当たって、入ってきた扉の向こうに視線を流してみる。
    そういえば授乳の時間だと言っていたはずなのに、そうとわかるような女性の姿はいつまでたっても一向に現れる様子がない。案の定、まるで隠れるようにしゃがみ込みながらこちらの様子を窺っていたアルフィンの姿まで見つけ、俺はようやく彼女の意図したものが何であったのかを理解した。
    振り返った俺と目が合った途端、アルフィンはすぐさまその頭を扉の向こうに引っ込めたが、しばらくすると恐る恐るという様子で顔を出す。
    (…あんにゃろう…)
    眉根を寄せてそちらを見下ろす俺に、やはり余計なことをしたのかと、うろうろ彷徨う視線でアルフィンはこちらを見返している。
    どうしよう、と心もとない上目遣いでいるアルフィンを俺はじっと黙ったまま見つめた。

    俺は暫くの間、片目を細めながらアルフィンを見下ろしていたが、やがて押し付けられたフォトフレームを目の前に翳しながら「…今日だけだぞ」と呟いてみせた。そして「後で覚えてろ」と言い、小さく中指を立てておどけてみせると、ようやくアルフィンはホッとした様子でゆっくりとその場に立ち上がった。
    そして、気を取り直したと思うが早いか、「行け行け」と手を振りながら訳の分からないエールまで送ってきて、わざと顔を顰めていた俺を笑わせた。


    まったく−−−。
    「…おせっかいめ」
    抑えようとしても零れてしまう笑いがなんだか面映い。
    そんな自分が自分で可笑しくてたまらなかった。
    この思いをなんと伝えたらいいのだろう−−−君に。


    そして、俺はあたたかい思いに身を浸しながら、大きく息を吐き出しては父を見た。
    ずっと何をきっかけにして話をすればいいのかと、なかなか始めの一歩を踏み出せなかった父との関係。ずっと同じものを見たかったのに、ずっと心の中に溜め込んでいたことをぶちまけたかったのに、ずっと共に笑ってみたかったのに、その為にはどうすればいいのか何を話せばいいのか分からず、ずっと同じところで立ち止まるしかなかった日々。
    だが。
    (もう、言葉など必要ない)
    俺は心の底からそう思う。
    今このガラスの向こう、すやすやと眠る小さな命の前で、二人が同じように立っているという事実だけで充分だ。
    昨晩、アルフィンを励ましながら父が語っていた言葉。それが多分、−−−紛れもない父の真実。
    親にできることは子供が掴み取るものを見守ることだけという父の言葉が、俺の心に静かに落ちる。

    今、あの部屋で静かに眠っているあいつの人生は、俺の人生でもなくアルフィンの人生でもない、この世でただ一つのあいつだけの人生だ。もし俺がこの先、あいつの遭遇する様々な難関をひとつひとつ片付けてやったとしても、それはあいつの生きる糧とはなりはしない。あいつの生きる道はあいつが考え、あいつが選び、あいつが自分の力で掴み取らなければならない。
    もし、あいつがクラッシャーになりたいと言い出したとしたら、きっと俺も父と同じことをするに違いないのだ。
    俺はぼんやりとそう思いながら、父に向かって足を踏み出す。




    春の風が俺の髪を揺らし、父の髪も揺らしては部屋の中で静かに舞った。







    「−−−親父」
    そうして俺は声をかける。













    あの日、−−−あのアラミスの空に架かった虹を見た日、握り返されることのなかった手を差し出して。










    今度は、自分から父の掌を強く握り返す−−−ただそれだけのために。
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■2760 / inTopicNo.16)  Re[15]: 空想迷宮
□投稿者/ とむ -(2010/02/05(Fri) 13:41:16)
    「空想迷宮」
fin.
引用投稿 削除キー/



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