| 1.記憶の鍵
幼い頃の記憶は、忘却の彼方に。
…遠い遠い記憶だ。 あれは一体いつの頃だったか。 本当にこれが自分の記憶なのか、それとも自らが勝手に作り上げた幻なのか、そんなことすら分からなくなる位、遠くて深い記憶の奥にそれは在る。 夢の中では笑っている父の顔。 「よくやったな。偉いぞ」 初めて歩いた俺を真っ直ぐに見つめて、こちらに差し伸べられた力強い腕。 転びそうな俺を、強く引き上げてくれる手の痛さが今でも蘇る。 大きな掌で俺の頭を撫で付けて、小さな自分を肩車したまま、低くて掠れたバリトンで俺を呼ぶ。 「ジョウ」 父の肩。 父の髪。 ゆらゆら、ゆらゆら、父の肩の上で景色が揺れる。 地平線に広がる夕陽の橙。 麦畑の黄緑。 母の笑顔が夕陽に霞む。 あれは、一体。
…いつの記憶だ。
−−−とうさん。 スクールの帰り、大きな七色の橋を秋の空に見つけて家路を急いだ日。 久し振りに帰省した父に、その光景を見せたくて背中に背負ったカバンを揺らしては息の続く限り走った。 見て。 すごく大きな虹だよ、とうさん。 この大きな虹の始まりはどこにあるのかな。 この虹は一体どこまで続いているんだろう。 とうさん。 宇宙からこの虹を見たら、一体どう見えるの。 小さく見える? 手で掴めそうなくらい頼りなく見える? それとも空に引っかかった小さなカーテンみたいに見えるのかな。 ねえ、とうさん。 それは一体どんな風に。 期待に満ちて見上げる俺に 「確かめるんだな。ジョウ、それはお前自身で」 そう一言だけ答えて、父は再び空を仰いだ。 差し伸べた掌は握られることはなく、俺の右手はそのまま空を彷徨う。 …とうさん。 一人で家に戻る父を見送りながら、取り残された俺は無言で父の背中を見つめるしかなかった。
本当は喜んで欲しかった。 ああ、本当だ。 すごく大きいなと一緒に笑って欲しかった。 久し振りに戻ったのに。 久し振りに話をするのに。 とうさんは黙っている。 夕飯を作りながら 「明日からまだ仕事だ」 そう言う父に、俺は何も言えなかった。
(俺も行きたい)
いつしか俺の中に生まれた願い。 いつか俺もとうさんと同じ宇宙に行きたい。 とうさんの見るものを同じように見て、とうさんの感じることを同じように感じてみたい。 きっと想像も出来ないほどの広い宇宙。 無限に続く星々と漆黒の闇が目の前に広がり、例えようもない昂揚感を持って俺を手招きするだろう。 そこで味わう胸の高鳴りや冒険の日々。数々の成功とそれを賞賛する喝采の声。 生きていることへの充実感に恍惚とする毎日。 そんなたくさんの未知の世界が、きっとどこまでも広がっている。
それを俺も見てみたい。 それを俺も肌で直に感じてみたい。 そうすれば。
とうさんは俺のことをちゃんと見てくれるだろうか。 とうさんのことが少しは分かるようになるだろうか。 俺はとうさんのことが知りたいんだ。 とうさんのことが分かるようになりたいんだ。
だから。 クラッシャーとして旅立つ日、俺は小さな秘密を持つことにした。
俺の中の深い森の奥に、あの優しい思い出を隠しておくのだ。 小さな箱の中に、それを大事に閉じ込めて鍵を掛ける。 そして、それをまた少し大きな箱に閉じ込めて。 何重にも何重にも重ねて、ちょっとやそっとでは開けられないようにしておく。
くじけないように。
ふるさとの地に帰りたいなどと思わなくて済むように。 温かいあの思い出がうっかり出てきて、自分を揺さぶったりしないように忘却の森に埋めてしまおう。 そうして俺は深緑の枝が深く覆いかぶさる森から、出口を目指して一目散に走り出す。
ひたすらに父の背中を追いかけるために。
いつか。
父と並んで走れるようになる、その日のために。
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