| 時は明治。 文明開化も足音高く、人々の生活も潤いと活気に満ち溢れ、さまざまな文化を取り入れだした昨今。 ここに一人の将来有望な若者がおりました。 先祖伝来の武士道を尊びつつも、父方のゆるぎない血筋により将来も約束されている若者でございます。
なかなかのお家柄を誇っておりましたこちらのお家の格式は、宮家の血筋もあることから、伯爵の称号をいただいておりました。 しかしながら、お輿入れには旧くから、勇ましき武家、富に飛ぶ庄家、機知に飛ぶ商家の子女を迎え入れ、他の宮家の皆様方からは宮家にはあるまじき振舞いぞ、との反発も頂いてはおりました。 それがただの宮家のお血筋にはない、眼光のするどさ、機転の利く所作、聡明な頭脳を導き出し、多くの財をもなす事ができたのでございます。
この現代、こちらの当主は檀と申します。
この者なかなかの切れ者で、末期江戸時代に生を受け、未だ鎖国を続けるお国の将来を嘆き、こっそりと亜米利加や阿蘭陀からの書物を取り寄せ、無理難解な現地言葉を訳しては読破しておりました。 其の甲斐あってか黒船の来襲により開け放たれたときにはすぐさま世界漫遊を決め込み、身一つで外航を試みましてございます。 十数年いえ、数十年たち、こちらの地に舞い戻りました際には、すぐに新事業をも立ち上げ大成功を収めるという快挙をもなしとげましてございます。 彼の漫遊暦伝は高貴の人々の中からも高い評価を得、格式にばかり縋りつく他の宮家の方々の失墜をも喰い止めるお働きも成し遂げました。
ここにこの蔵氏弥家の繁栄は決定付けられたと言いましても、過言ではございません。
残念ながら、檀様がお戻りになる数年前に蔵氏弥家の先代当主ご夫妻の突然の死によって、多大なる負債を一時抱えることとなりましたが、檀様のお働きにより、それすら有って無きが事実のようになっておりましたこと、ここに改めて記述いたします。
そして、現代、蔵氏弥家の唯一無二の男君。現当主であられる檀氏の御長男、彼の名を穣と申します。
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